本記事は、千本倖生氏の著書『千に一つの奇跡をつかめ!』(サンマーク出版)の中から一部を抜粋・編集しています。
最初に水に飛び込む「ファーストペンギン」になれるか
ファーストペンギンという言葉を聞いたことがあるでしょう。ペンギンはつねに群れをつくって行動する動物ですが、集団を統率するボスやリーダーは存在しないといわれます。
それでは、なぜペンギンは隊列を組んで移動したりするなどの整然とした集団行動ができるのでしょうか。それは、最初に行動をとった1羽にみんなが従うという習性があるからだといわれます。
エサをとりに海に飛び込むときも同じで、群れは互いにけん制するような仕草を見せるだけで、最初の1羽が飛び込むまで行動を起こさない。
逆にいえば、シャチやヒョウアザラシといった天敵がいるかもしれない未知の海にまっさきに飛び込む1羽、すなわち〝ファーストペンギン〟の勇気、果敢なチャレンジ精神、そのベンチャースピリットは、称えられてしかるべきものなのです。
自分がエサにされてしまうリスクや恐怖を克服して、エイヤッと未知の世界に飛び込むのは危険で破壊的な決断でもあります。しかし、それが成功すれば、いち早く利益を得られるメリットがある。
また、集団にさきがけてリスクテイクするファーストペンギンは、その行動をあと追いするその他大勢よりもさらに、大きな成長の機会を得られる存在でもあります。
なぜなら、未知の世界を経験することはクオンタムリープ=飛躍的成長の条件の1つであり、危険を恐れず、果敢に挑戦することが大きな成長への飛躍台となるからです。
電電公社を辞めてDDIをつくったときの私は、未知の冷たい海に最初に飛び込むファーストペンギンだったといえるかもしれません。
30万人いた社員の中で、NTTというエスタブリッシュメントが既得権益を独占する市場のいびつさや危機を認識していた優秀な人は他にもかなりいたはずなのその組織の外へ出て、新しいアクションを起こしたのは、けっきょく私1人だけだったのですから。
西洋のことわざに「卵を割らないとオムレツはつくれない」というのがありますが、私はその卵を最初に割ったおっちょこちょいのピエロであると同時に、勇気あるファーストペンギンであったのかもしれません。
つねに新しい場所でゼロからイチをつくる
DDIでの日々は苦しいことの連続でしたが、いま思えば、ひじょうに起伏に富んだ、中身の濃い、貴重なものでした。
大げさではなく電電公社時代の百倍の振幅で仕事をこなし、アントレプレナーとしての喜怒哀楽も十二分に味わい尽くした体験だったといえます。
ふつうの人生なら、このへんである程度の落ち着きを見せるのでしょうが、私の場合、再び変化の機会がやってきました。
DDIをつくってから、ちょうど
辞めた理由は一言ではいいにくいものがあります。
1つには、「この会社で自分のすべきことはすべてやり終えたのではないか」という充足感に似た思いが、しだいにふくれあがってきたことです。
DDIが株式上場を終え、創業10年を迎えた頃から、私は「一つの時代」が終わりつつあるのを感じていました。
当時のDDIはまだ成長途上にある中堅クラスの企業でしたが、事業が軌道に乗り、企業としての安定度がしだいに増してくるにつれて、「起業家としての自分の役割は、この会社のなかではもう果たしてしまったのではないか」という思いが抑えがたくなってきたのです。
何もないところから新しいことを発想し、それを大きくしていく過程、ゼロからイチを生むプロセスに、私はおもしろさや喜びを感じるタイプの人間です。
DDIの居心地はたしかにすばらしいものでしたが、それだけにその居心地のよさに安住することは、私のなかのベンチャー精神を弱体化させ、私らしさを失わせてしまうのではないか。そんな危機感に近い感情にしばしば襲われることになったのです。
成長とともにDDIの内部も組織的に整備されていき、創業初期の頃の社員全員が立場や部門の別を越えて、同じ1つの目的に向かってありったけの情熱を注ぎ込むといったダイナミズムが徐々に失われつつあったこと。それが、私に少しの物足りなさや
あとは決められたレールの上を決められた速度で走っていけばいい ―― そんな「居心地のよさ」が、私にはかえって居心地悪く感じられるようになっていたのです。
慶應義塾大学の経営大学院から、「教授として迎えるので、教壇に立ってみないか」というお誘いを受けたのは、そんな頃でした。
アメリカ留学中にはドクターの資格だけでなく助教授のポストも得ていたことから、いっときは向こうの大学で教鞭を執ることも考えたほど、もともと教育に興味はありました。
ベンチャー経営学や起業家育成プログラムといった内容の、座学にとどまらない実践的な経営論を日本の若い学生相手に教えるのもおもしろくて、やりがいや意義のある仕事ではないか ―― そう考えた私は実業の世界から身をひいて、教育界に転身することを決意したのです。
DDIを退職したのは1995年の年末。私が53歳のときで、その退職日は電電公社を辞めた日と同月同日。私なりの区切りのつもりでした。
私のこの転職を、経済新聞が「華麗なる転身」と書いてくれたのも、なつかしい思い出です。
ちなみに私が退職の意思を伝えたとき、稲盛さんは「ああ、そうか」といった反応しか示しませんでした。
これは推測ですが、私が辞めることをなかば予測していたようでもあり、たとえ自分が引き止めたところで私が翻意するような人間ではないことを見抜いていたようでもありました。
私の人生を大転換してくださった稲盛さんに対し、数多くの深い教えをいただいたにもかかわらず、ほとんどといっていいぐらい何のご恩返しもできないまま会社を去ることに、深いお詫びの思いと感謝の念を心に抱きながら、退職の意を申し出ました。
DDI内部にはすでに私よりも若い、これからの時代に会社を担う新しい世代の人材が育ってきていました。それはちょうど創業期が終わり、DDI第二の季節が幕を開けようとする時期だったのです。