本記事は、千原せいじ氏の著書『無神経の達人』(SBクリエイティブ)の中から一部を抜粋・編集しています。

ハートフル
(画像=taka/stock.adobe.com)

日本人のホスピタリティは「お・し・つ・け」?

なにかと閉鎖的でコミュニケーション下手な日本人の性質は、コロナ禍でいっそう際立ってきた気がします。

たとえば航空会社の対応なんかを見ても、海外の会社と日本の会社とでは、ちょっと違います。表面的には小さな違いだけど、本質的には大きな違い。根底に流れているサービス精神が違う、といってもいいかもしれない。

感染拡大防止のために、乗客にマスク着用をお願いする。ここまでは、どこの航空会社でも同じです。仕方ないことですよね。でも、ここからが違う。直近で海外に行ったときはKLMを使ったんですが、機内で、こんなアナウンスが流れました。

「感染対策のために、乗客のみなさまにはマスクの着用をお願いしております。でも、いつの日かマスクなしで、またお会いできることを楽しみにしております」

日本語にすると、だいたいこんな意味でした。

伝えるべきことはしっかり伝えたうえで、「いつかマスクなしで会えたらいいですね」と言い添えるなんて、むちゃくちゃ素敵じゃないですか? マスク着用という窮屈さを乗客・乗員みんなで乗り切ろうという一体感が生まれたようにさえ感じられて、なんか、ええなあ〜と思いました。

でも記憶している限り、日本の航空会社は、こんな気の利いたアナウンスをしません。

マニュアルどおり「国土交通省からの通達により、新型ウイルスの感染拡大防止のため、マスク着用にご協力をお願いいたします」と言うだけ。航空会社はサービス業でもあるのだから、もうちょっと心に響く言い方をしてもいいんじゃないかと思うけど、どうも杓子 (しゃくし)定規すぎて温かみがない。

こういう違いを見てしまうと、日本って、本当に「お・も・て・な・し」の国なんだろうかと疑いたくなります。

「これが日本流おもてなしだ!」とドヤ顔でサービスするのは、「お・も・て・な・し」じゃなくて、単なる「お・し・つ・け」です。おもてなしって、もっと心がこもったものでしょう? 機内アナウンスひとつにも、血の通った人間としての気遣いをサラリと差し挟む。これこそ本当のサービス精神じゃないでしょうか。

そもそも日本のホスピタリティが本当にすごいのなら、世界中で、そのノウハウが学ばれているはずです。世界中の一流ホテルだって、こぞって日本の旅館やホテルで研修するはずでしょう。

でも、サービスのなんたるかを説く本なんかで手本とされているのは、リッツ・カールトンやヒルトンといった海外のホテルばかり。この事実を見るだけでも、実は「お・も・て・な・し」なんて日本人の自己満足のために唱えられた言葉に過ぎず、本当のサービス精神なんて、ほとんど持ち合わせていないんじゃないかと思えてきます。

みなさんの中に、サービス業に従事されてる方がいたら、ごめんなさい。一生懸命お仕事されているのは、間違いないと思います。

でも、この際、はっきり言わせてもらいます。

「日本はおもてなしの国だ」とか「人にちゃんと気遣いできる繊細な国民性だ」とかいうのは、ぜんぶ幻想なのかもしれない、ということに気づくところから始めないと、コミュニケーション能力の向上もなにもあったものではないと思うんです。

気遣うふりをした善意の押し付け

さらに言わせてもらうと、ホスピタリティをうたうのはいいとしても、日本の場合は、ちょっと過剰で、しかも的はずれなものが多い気がします。

たとえば、海外から帰ると、「日本の電車は、ようしゃべるなあ」と改めて感じます。

停車駅や乗り換えの案内は役に立つとしても、それ以外にも、「不審物などを見かけましたら、駅係員までお知らせください」「傘などのお忘れ物が多くなっております、お気をつけください」とかなんとか、過剰なアナウンスが多い。「マスクはなるべく不織布のものをおつけください」なんて、マスクの種類を指定するアナウンスもありました。

いちばん思うのは、なんでそんなに謝るんだろうということ。「2分遅れてすみません」

「昨日は事故の影響で遅れてすみません」って……。数分の遅れなんて、普通に考えたら誤差の範囲でしょ。翌日まで謝るのも、どんな強迫観念かと思います。先日なんか、飛行機でも「到着が予定より3分遅れて申し訳ありません」と謝られて、びっくりしました。

こういうのを見ていると、日本人が「ホスピタリティ」とか「サービス」と思ってやっていることは、実は、お客さんのことを考えているわけじゃなく、「自分が怒られたくないから、予防策を打っておこう」みたいな意識によるところが大きいんじゃないかと疑わしく思えてきます。

だから、あらかじめ必要以上に下手に出る。それが僕なんかからすると、結果的に押し付けがましくなっているように思えるんです。

そもそもサービスとは、サービス精神という矢印の先がお客さんにきちんと向いて、お客さんのニーズや満足感に合致してこそ、成立するものですよね。そうじゃなければ、押し付けがましいだけです。

なにが言いたいかと言うと、「優しさ」「気遣い」と、「余計なお節介」「善意の押し付け」は、ぜんぜん違うということです。これはサービス業だけでなく、人間関係全般にいえることだと思う。

じゃあ、どこが違うか。優しさや気遣いは相手のことを思った行為だけれども、お節介や善意の押し付けは、「相手のことを思っていると見せかけて、実は自分のことしか考えていない」というところです。

要するに「こんなに人を気遣える私って、いい人でしょ」と思われたい。そんな自己満足感に浸りたいだけじゃないでしょうか。

ヨーロッパで幼少期を過ごしたのち、日本に帰国した子と話したときのことです。その子は、「日本で暮らすのが、ものすごいしんどい」と言っていました。

一時期、「ぼっちが怖い大学生」みたいな現象が話題になったこともありますけど、日本の学校では、「ひとりでご飯を食べる=ひとりぼっちでかわいそう」ということになっている、と。ひとりで食べたいときも、やたらと「一緒に食べようよ」と声をかけられる。

断ると変人扱いされたり、「せっかく誘ってあげたのに」みたいなことを言われたりする……。

それがしんどい、という話でした。

これこそお節介であり、善意の押し付けですよね。

本人は単純にひとりで食べたくてひとりでいるのに、そこへの「気遣い」はなく、ただ「ひとりぼっちでかわいそうな子を誘う、優しい私」を見せたいということでしょ。でなきゃ、断られたからといって捨て台詞みたいなことは言わないわけで。こんなふうに相手の都合を考えないのは、いいコミュニケーションとはいえないと思うんです。

「善意の押し付け」で、もうひとつ思い出しました。

ガーナでのロケのときに、現地の人から「ぜひみんなに伝えてくれ」と言われた話です。

ガーナは開発途上国ということで、日本なんかからもいろいろな支援物資が送られてきます。でも、その中に新品はなくて、ほとんどが中古。しかも、使えないものばかりなんですって。さらに、それらを処理するためのエネルギーや料金が、国にとって大きな負担になっていると。

先進国にとってのゴミは、途上国の人たちにとってもゴミ。

「自分たちはもう使わないけれど、貧しい人ならば喜ぶだろう」というエゴが感じられて、なんとも言えない気分になりました。

無神経の達人
千原せいじ
芸人。1970年1月25日生まれ、京都府出身。1989年に弟である千原ジュニアとコンビ「千原兄弟」を結成。テレビ番組等の企画等でこれまでに70ヵ国以上を訪問し、卓越したコミュニケーション力が話題となる。2018年にメンタルケアカウンセラーの資格を取得。2021年、貧困・就学困難への支援や国際協力の推進等を主な事業とする一般社団法人ギブアウェイを設立、代表理事となる。著書に『がさつ力』(小学館)、『プロに訊いたら驚いた! ニッポンどうなん?』(ヨシモトブックス)がある。

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