本記事は、千原せいじ氏の著書『無神経の達人』(SBクリエイティブ)の中から一部を抜粋・編集しています。
「悪しき神経質」がはびこる日本
同調圧力とお節介がはびこる日本社会で、人と気持ちよく交流しながら、自分の足でしっかりと人生を歩んでいく。そのためには、「ちょっと無神経なんじゃない?」と思われてしまうくらいの言動をとったほうがいいんじゃないかと思います。
でないと、ずっと「自分」というものを発揮できないまま、心のどこかに窮屈さや不満を抱えながら生きていくことになる。僕だったら、そんなのごめんですね。
「無神経」といっても、平気で人を傷つけるような無神経さではなく、これまで言ってきたように、根っこには人に対する気遣いがあることが大事。
あくまでも、相手と手っ取り早く仲よくなったり、一緒に楽しいことをしていったりするための無神経です。だから、パワハラ、セクハラ、いじめなんて、当然もってのほか。
いじめといえば、日本の学校では、いじめられた側が学校を休んだり、転校を余儀なくされたりしますよね。すごく理不尽だと思う。
悪いのは、どう考えても、いじめた側です。
しかも、いじめっ子というのは、ある日突然変異のようになるのではなくて、ほとんどの場合、親の影響じゃないかと思います。あえて言いますけど。
きっと親同士、家庭内で他人のよからぬ噂話をしたり、偏見や差別にまみれた物言いをしたりしているんでしょう。それが、子どもに伝染してしまう。
いじめっ子体質の親の子は、いじめっ子になる。自然な流れだと思うし、だからこそ根深いんです。
また話が逸れてしまいました。
犯罪者は逮捕されて裁判で刑期が決まり、刑務所に行くのが、社会の流れです。人に加害をしたほうが、隔離されるのが当然なはず。なのに、学校生活となると、正反対のことが起こる。いじめが原因で不幸な事件が起こったときも、いじめられた被害者の子の情報はバンバン流されるのに、加害者の情報はいっさい出さない。未成年だから? それだけですか? マスコミの姿勢にも問題があるけど、そういった報道も含めて、なぜ加害者が守られて、被害者がさまざまな不利益を受け入れなくてはいけないのか、僕にはさっぱり理解できません。
ここでまた海外を引き合いに出してしまいますが、アメリカの小学校などでは、いじめた側に徹底的な対応をする場合がほとんどだといいます。
さらに加害行動を重ねないように学校を休ませ、スクールカウンセラーとのセッションで暴力性の根源や対処法を探っていく。児童精神医学のプロフェッショナルが関与する場合も、多いと聞きます。つまり、いじめている側を学校から排除するだけではなく、その子もまた家庭環境や社会背景の産物、いわば被害者のひとりだと捉え、しっかり更生させようとするのです。
そして、更生の手段としては、スクールカウンセラーや児童精神医学のプロとのセッションなど、コミュニケーションが担う部分が大きいわけです。社会生活を営むうえでコミュニケーションは欠かせないものですから、その手段は大いに納得できます。
アメリカのようにいじめっ子を更生させるよりも、日本のようにいじめられっ子を引き離すほうが、はるかに対処は簡単でしょう。いじめられっ子が転校すれば、とりあえず、いじめは「ないこと」「なかったこと」にできますから。
でも、そこで割を食うのは、子どもたちです。なにも悪くないのに居場所を追い出される被害者はいうまでもなく、加害者だって更生の機会を失うわけですから。もちろん、両者を引き離すという解決法には、コミュニケーションはいっさい介在しません。
コミュニケーションとは、「人の話を聞く」「自分の話を聞いてもらう」「相互理解に努める」の繰り返しです。もちろん、相手のことが理解できない場合もあるし、誰とでも仲よくなれるわけでもない。そうしたリアルな経験をしながら、人間関係の土台となるコミュニケーション能力を磨いていく必要があるのだと思う。
じゃあ、日本の学校は、そういうコミュニケーション能力を育てる場になっているの?
もちろん、コミュニケーション能力の育成を学校だけに委ねるつもりも、責任を学校だけに押し付けようとしているわけでもありません。
でも、いじめ問題ひとつをとっても、日本の学校は、教師側の都合しかない理不尽がまかりとおっている場所としか思えない。指導と称して生徒を殴って怪我をさせたりだとか、猛暑の最中での部活で生徒を死なせたりだとか、教師による許せない事件も、いまだに後を絶ちません。
生徒間のいじめも、「しつけ」「教育」の名のもとで行なわれている教師の暴力も、言い逃れようのない犯罪です。本来ならば、傷害や傷害致死など刑事事件として扱われなくてはいけないはずです。
それなのに、なぜか学校だけが聖域になっていて、傷害事件や傷害致死事件が、「いじめ」「しつけ」「教育」と言い換えられて、ふんわりと扱われている。そんな悪しき無神経がはびこっている場所で、まともに人とコミュニケーションがとれる子どもが育つはずないと思います。
「いらんこと言う」にも効能がある
僕は、幼いころから感情のコントロールが下手くそなほうです。喜怒哀楽もすぐ顔に出てしまうし、それが原因で人にいらぬ誤解を与えてしまうこともあった。いつも楽しんでいる子どもだったとは思うけど、反面、いらんひと言を口にしてしまうことも多かった。
大人になった今も、そういった面はあまり変わっていないと思います。
この間、打ち上げでキャバクラに行ったら、僕の横に座った女の子の腕が切り傷の跡だらけだったんです。いわゆるリストカットってやつです。左腕と右腕にはじまり、見れば太ももやくるぶしの上にまで。
もうどうしたって目に入るから、つい「キミ、どんだけ死にたなんねん!」と突っ込んでしまいました。
「さびしいとき」と落ち着いたトーンで答えられたので、僕も「ああ、そうなんや……」と。
「またいらんこと言ってしまったかな」と、少し反省しまして。
でもまあ、彼女とはそのあとも普通に話をつづけて、最後には「せいじさんが出ていた、あの番組、見ました。すごくおもしろかったです。また出てください」って言ってくれた。
「ほな、必ず出るから、それまでは生きとけよ!」と返したら、「そんな優しいこと言われたの初めて」と泣き出してしまって……。そこで急に優しくするのもへんだし、僕のガラじゃないから、「急になんや自分、気色悪いな!」と言って帰りましたけども。
その子に僕が言ったことは、「いらんこと」だと思う人も多いかもしれない。でも、傷跡を隠したかったらいくらでも隠す方法はあるのに、彼女は腕も太もももさらけ出していた。「ひょっとしたら、触れてほしいのかな」と思ったから、最初のひと言を発したわけです。
だって、せっかく縁あってお話しした女性だから、つらくてリストカットを繰り返すくらいなら、なにか少しでも楽しいことを見つけて生きていてほしいじゃないですか。僕の言葉の根っこにある、そういう気持ちをわかってくれたからこそ、その子もちょっと喜んでくれたんじゃないかなと思っています。
相手の痛いところに、あえて触れるかどうかというのは、すごく難しいところです。ただ、結果論ですけど、このケースではへんに腫れ物を扱うように接するよりは、いらんこと言って突っ込んでよかったと思う。
似たような話で、インタレスティングたけしというお笑い芸人の話をさせてください。
彼は芸人兼映画監督兼ミュージシャンで、
あるお笑い番組で、彼がドッキリを仕掛けられる企画が放送されたのですが、案の定というか、やはり「しゃべり方をバカにしている」という意見が殺到した。
インたけは僕が経営していた店でバイトをしていたこともあって、昔から仲がよかったんです。彼はその番組に出られたことをめっちゃ喜んでいたし、彼のお母さんも「やっとテレビに出られた」とやっぱりうれしがっていた。僕ら仲間も「よかったやんけ」と言っていたのに、そういう意見があったことがまたネットニュースになってしまった。
そうすると、テレビ側も次のオファーに二の足を踏みますよね。「せっかく芸人としてテレビに出られて喜んでいたのに、吃音だと笑いにならないって……。じゃあ、どうやって飯食っていったらええねん」て話です。生まれつき全盲に近い弱視で、『R -1グランプリ』で優勝経験もある濱田祐太郎くん、彼も「バラエティで障害をネタにすると、すぐ『差別だ』と抗議が来る。でも、障害者にテレビでお笑いをさせないことは差別じゃないのか」ということをツイートしていました。
実際、インたけのもとには「僕も吃音で、それがコンプレックスで引きこもっていたけど、外に出ていく勇気をもらえた」という声も、たくさん届いているというのに。そういえば、海外では小人症やダウン症の人が有名俳優としてたくさん活躍しているのに、日本ではなぜか出てきません。
いろいろと意見はあるでしょう。けど、さっきのリストカットを繰り返したキャバクラの子ではないけれど、周りが勝手に腫れ物扱いすることで、本人の活躍の場が狭められたり、逆に本人が萎縮したりしてしまうのは、ちょっとおかしいんやないかなと思います。