この記事は2024年11月12日に「第一生命経済研究所」で公開された「Q&Aで答える「年収の壁」問題」を一部編集し、転載したものです。


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(画像=Emma / Adobe Stock)

目次

  1. Q1.「103万円の壁」がここまで注目される背景は?
  2. Q2.178万円の根拠は何か?
  3. Q3.大きな減税規模にすると、消費刺激・企業業績の押し上げができるという国民民主党の主張はどうか。
  4. Q4.基礎控除引き上げで、税収が▲7.6兆円減ってしまうと財政再建が頓挫するのではないか。
  5. Q5.財源の穴はどう埋めるべきか?
  6. Q6.103万円以外の社会保険料の壁はどうなるのか。

Q1.「103万円の壁」がここまで注目される背景は?

A.衆議院選挙の各党公約では、物価対策が議論された。石破首相は、2020年代に最低賃金を1,500円(2024年は1,054円)に引き上げることを公約した。しかし、最低賃金だけを引き上げても、「年収の壁」があると、結局、パート労働者は労働時間を減らして103万円の範囲でしか稼がない人も出てくる。その弊害をなくすことが「年収の壁」対策になる。

勤労者のうち、配偶者控除の適用を受けているのは772万人(2023年度、国税庁)、扶養控除を受けているのは917万人(同)。配偶者は2020年の見直しで「年収の壁」は103万円から150万円へと引き上げられた。だから、配偶者控除の次に、扶養控除の壁が問題になる。

物価対策として、野党からは消費税減税、給付金などが挙がっていた。国民民主党は、消費税減税も公約していたが、与党の法案に賛成票を入れる条件としては、①年収の壁対応と、②ガソリン等の補助金支給のルール変更(トリガー条項の凍結解除)を前面に出すようだ。

Q2.178万円の根拠は何か?

A.なぜ、103万円が議論になるかという「そもそも論」では、扶養控除適用の基準として、103万円(基礎控除+給与所得控除)が低すぎるという意見があるからだ。この103万円という金額が定まったのは1995年の改正である。物価上昇を織り込んで、これを現在価値に合わせていく必要はある。

国民民主党は、1995年の最低賃金が時給611円だったから、それを足元の全国平均の最低賃金1,054円と同じ倍率に合わせて上げるべきという。実に1.725倍の増額である。103万円をかけると、178万円になるという理屈だ。

しかし、購買力ベースで言えば、物価を尺度にする方が妥当ではないか。当時に比べて、消費者物価・総合は1.136倍になっている(図表1)。103万円の境目は、現在価値を織り込んで、117万円にするのが正当だ。計算根拠は、1995年平均の消費者物価・総合指数が95.9だったから、それが2024年9月には108.9まで上がったと考える。具体的に計算すると、103万円×(108.9÷95.9)=117万円となる。

また、別の尺度として、パート賃金を使うこともできる。厚生労働省「毎月勤労統計」では、パート労働者の現金給与総額は、1995年平均(指数93.6)に比べて、2024年1-6月平均(同110.2)が17.7%の上昇率である(1.177=110.2÷93.6)。これを103万円にかけると、121万円になる(図表2)。

2つの尺度を使って考えたとき、103万円はおおむね120万円前後としてよいことになる。

Q3.大きな減税規模にすると、消費刺激・企業業績の押し上げができるという国民民主党の主張はどうか。

A.経済効果は、不安定である。岸田前政権の定額減税は、多くが貯蓄に回り、7-9月の消費刺激効果は乏しかったと思われる。財政の規模として3.5兆円もの資金を使った減税は、十分な需要を喚起できなかった。その理由は、1回切りの減税だからだと言う人もいる。それも証明はできない。

国民民主党の主張通りに、103万円の境目を178万円(+75万円)に上げると、7.6兆円の税収減になるとされる。確かに、毎年7.6兆円もの減税が継続すると、定額減税よりは支出に回る可能性はある。それでも、一部が貯蓄されるから、7.6兆円を上回る効果は見込めないだろう。恒常的に財政収支を悪化させる。

Q4.基礎控除引き上げで、税収が▲7.6兆円減ってしまうと財政再建が頓挫するのではないか。

A.税収減の▲7.6兆円によって、政府の財政赤字が増える。2025年度は、国・地方を併せて基礎的財政収支が黒字化するチャンスが久方ぶりに訪れている。ようやく、政府債務の元本を減らせるところまで来た。過去、日本の歴史では、バブル期のように財政再建を果たせるチャンスを歳出拡大や減税で逃してしまった経験がある。

また、現在、日銀が利上げを進めており、今後、長短金利が上昇していきそうな可能性が高まっている。だからこそ、政府は努力して、債務の元本を減らさなくてはいけない局面だと考えられる。

一方で、物価上昇対策には、需要刺激よりも、過度な円安を抑える方が有効と考えられる。その準備として、今やるべきことは経済体質を強靱化することだ。企業の財務体質を強化して、ゆっくりと日銀が利上げをする方が物価は安定する。

2025年1月にトランプ政権になれば、さらに円安が進むだろう。トランプ政権の不確実性に備えて、日本企業の国際競争力を強化することこそ、政府が目指すべきことだ。生産性が上がれば、賃金も増やせる。

Q5.財源の穴はどう埋めるべきか?

A.政府の税収が増えているから、減税は可能だという人もいる。国税だけでみても、2020年度60.8兆円から2021年度67.0兆円、2022年度71.1兆円、2023年度72.1兆円と飛躍的に伸びている。2024年度は定額減税で▲3.5兆円の減収が見込まれるが、それでも69兆円前後の税収が期待される。

しかし、税収増を減税で使ってしまうと、財政赤字は減らせなくなる。もしも、税収増がこの調子で進んでいけば、前述のように、政府債務の元本を来年度(2025年度)には減らし始められる公算が高い。基礎的財政収支の黒字化に手が届く。

確かに、筆者は「年収の壁」への対応はすべきだと考える。しかし、国民民主党の言うような+75万円の控除拡大は大きすぎると考える。そうした大番振る舞いは慎み、103万円の壁はひとまず120万円を落とし所にするのが合理的だと考える。仮に、+75万円→+17万円になれば、減税になる規模は1/5近くまで圧縮される。金額で示すと、▲7.6兆円の税収減が▲1.7兆円で済む。

さらに、工夫する余地はないのかを考えると、中高所得層のところでは、給与所得控除を減らすという方法もある。例えば、年収800~900万円当たりで、基礎控除を上げた分、給与所得控除を引き下げて、合計の控除額を中立化する。これは、前例として、2020年に配偶者控除の壁を是正した経験を参考にしている。もちろん、+75万円の基礎控除額の調整は選択せず、+17万円の調整にするケースにおいてである。さらに、給与所得控除の上限調整をすれば、▲1.7兆円の税収減も回避できる可能性もある。

Q6.103万円以外の社会保険料の壁はどうなるのか。

A.厚生労働省は、別にある106万円と130万円の壁の解消に動き始めた。厚生年金の加入義務の縛りのところを、106万円・130万円から、主に「週20時間以上」に絞ろうとしている。2025年4月からの見直しになるのだろうか。

現在のパート時給(毎月勤労統計で計算したもの)を使って試算すると、週20時間=月86.66時間は年収140万円になる。このくらい境目が高くなることは歓迎される。

ただし、こうした措置は、これまで厚生年金への移行を仕方がないと受け止めて、厚生年金への加入を決めていた人からすれば、「加入する義務はルール変更でなくなりました」という方針変更になる。特に、従業員規模51~100人の事業所などでは混乱が起こるかもしれない。この混乱は、扶養者だけではなく、配偶者のところでも大きく広がりかねない。

細かいことを言えば、扶養控除に併せて、勤労学生控除の適用を受けてプラス・アルファの控除枠をもらえば、親は扶養控除38万円(特定扶養控除は63万円)の枠を失う。これも「見えない壁」になっている。利用者の目線で考えて、制度を工夫することも大事だろう。

そもそも、「年収の壁」問題が財務大臣の所管と、厚生労働省の所管で分かれて議論されてきたことは、問題解決を複雑にしてきた。政治はこうした役所の壁をなくす役割で動いてほしい。政治の視座は、年金・税、そして健康保険(=医療)に亘って広範囲に影響する事柄について、一体のものとして負担軽減の余地がないかを検討すべきだ。

ただし、その手続きは、政治が問題提起をして、専門家への諮問を得て進めるのが本筋だろう。丁度、米国のトランプ前政権をみても、何事も政治判断が正しいみたいな世界になると、それに賛成でない国民の多くは大混乱に陥る。特に、税や社会保障の議論は、選挙公約で細かな部分まで決めるのではなく、もっと慎重に熟議を尽くした方がよい。ここは石破首相に責任者としてしっかりと日本の舵取りをしていただきたい。

第一生命経済研究所 経済調査部 首席エコノミスト 熊野 英生