この記事は2024年5月14日に「第一生命経済研究所」で公開された「賃金はそもそも3%も上がっていたのか?」を一部編集し、転載したものです。


賃金
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目次

  1. 2月、3月と急減速した賃金
  2. 全数調査の社会保障統計で24年度の動向を確認してみる
  3. よくわからないのは24年度の賃金実勢
  4. 「春闘賃上げ率」への依存は危うい
  5. 「毎勤急減速の謎」に対するもう一つの仮説

2月、3月と急減速した賃金

賃金の動向を巡って、市場関係者が頭を悩ませている。厚生労働省の公表する毎月勤労統計によれば、所定内給与(一般労働者・共通事業所ベース)の伸び率は1月:+2.9%の後、2月:+2.0%、3月:+2.0%と2、3月に急減速した。ほかの賃金関連統計も用いながら、この謎に迫りたい。

第一生命経済研究所
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全数調査の社会保障統計で24年度の動向を確認してみる

まず、紹介したいのはEconomic Trends「社会保障事業統計による賃金把握の課題~標準報酬上限をはじめ様々なクセに留意する必要~」(2024年6月4日)で紹介した社会保障統計を用いた賃金動向の分析だ。毎月勤労統計は標本調査であるため、常にサンプルの偏り(賃上げをしている・していない企業に集計対象が偏るなど)による誤差の問題が付きまとう。それに対して、社会保障の事業統計は厚生年金保険や健康保険に加入するすべての人を対象とした全数調査だ。社会保険料の算定に用いられる標準報酬月額の平均値も公表されており、これは賞与を除いた固定給部分の月給額に概念的に近いものになる。

制度改正に伴う要因などについて一定の調整を加えたうえで、伸び率の推移を見たものが資料2である。現時点で公表されている厚生年金保険の平均標準報酬月額は23年度+1.5%→24年度+2.0%に加速。より実勢賃金に近いと考えられる健康保険の平均標準報酬月額(資料2注参照)の値は、執筆時点で一部(組合健保分)が未公表である。そこで、23年度の厚生年金との差異等をもとに延伸した値を示している。得られた数値をもとにした24年度の伸び率は+2.4%と、2%台半ば程度となる。先に見た毎月勤労統計の示唆する24年度伸び率の水準感、3%弱程度よりも1ノッチ低いイメージになる。

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よくわからないのは24年度の賃金実勢

資料3は毎月勤労統計、賃金構造基本統計調査、ナウキャストの公表するHrog賃金Now(求人データを用いた募集賃金)、健康保険の標準報酬、連合調査における春闘ベースアップ率の5つの賃金統計におけるフルタイム労働者の基本給について、23年度、24年度の伸び率を比較したものだ。23年度は各統計間のギャップは軽微であり、おおむね2%程度の賃金上昇が生じた、と違和感なく判断できる状況にあった。

しかし、一転して24年度はバラバラであり、統計によって2%弱~3%台後半まで開きが出てしまっている。それぞれの統計の補足範囲は異なるので、単純比較が適していない面もあるのだが、賃金実勢がどこにあるのか、わかりにくい状況になっていることは確かであろう。筆者はこの中では全数調査の健康保険の統計が信頼性は高いと考えており、賃金は毎月勤労統計ほど伸びていなかったのでは?という考えを持っている。先に述べたように組合健保分(9月の定時改定後の値)は未公表で推定値になっているので、後日公表された数字を見て必要に応じて再度検証してみたい。

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「春闘賃上げ率」への依存は危うい

上の図を用いて一つ指摘しておきたいのは、「春闘賃上げ率」の数字の実勢賃金に対する説明力は低下しているのではないか、という点である。1年前に示された24年度の連合調査における春闘賃上げ率のベースアップ率は3.56%であった。これを受けて、市場関係者の中でも24年度の所定内給与は+3%台半ば程度に達する、とみる向きが多かったように思う。しかし、毎月勤労統計の数字は+3%弱程度にとどまっている。筆者は、先の健保の統計などから実勢賃金はもう1ノッチ低いのではないかと疑っているが、毎勤の数字との比較であっても春闘賃上げ率調査のベースアップ率との間には乖離が生じている状況である。

春闘賃上げ率調査が平均賃金と乖離する背景は、昨年レポート「「5%賃上げ」の期待外れリスクを考える~春闘賃上げ率とはどういう数字なのか?~」にまとめている。春闘賃上げ率調査の数字が、「組合のある企業のみを対象としている」「組合員の賃金を対象としており、非組合員のミドルシニア層の動向をカバーできていない」(賃金水準の低い若年層賃金がより高く上がるような局面では、組合員を対象とする春闘賃上げ率は全体平均に比べて高く出やすいことになる)などの点から差異が発生する。加えて、春闘賃上げ率の数字自体は各社の報告をベースにしており、統計調査と異なりその数字の厳密性が高いわけではない。足元のように労働者側も経営者側(人材確保、労働者側へのアピール)も政府側も「高い賃上げ率」を望んでいる現況において、数字を高く見せたい、という動機から起こる上方バイアスが生じてもおかしくはない。

日銀はかねてから春闘賃上げ率の数字を重視している。春闘賃上げ率は賃金上昇率を予測するうえで重要な変数であることは間違いない。その数字が相場観を形成し、調査対象外の賃上げ率にも波及するという点でも賃金の大きな趨勢を決めるものだ。しかし、数字をそのまま鵜呑みにして「春闘賃上げ調査のベア率と同等にフルタイム基本給が伸びる」と判断することにはリスクも多そうだ。

「毎勤急減速の謎」に対するもう一つの仮説

冒頭の「2・3月急減速の謎」に話を戻そう。この謎に対する一つの仮説が「うるう年仮説」(新家(2025)「3月の労働時間はなぜ減ったのか~3月分にもうるう年要因の裏の影響が?~」)だ。2月、3月の統計に昨年のうるう年の裏の影響が出ており、労働時間や給与に影響が出ているとするものだ。これが正しければ、4月の給与の伸び率は急減速以前の水準まで復することが期待される。

これまでの議論を踏まえてここにもう一つ、4月の賃金が戻らなかった場合に備えた仮説を加えたい。それは「そもそも3%も伸びていなかった仮説」である。従来、毎月勤労統計が示してきた3%弱程度の所定内給与の伸びは標本誤差の影響で過大になっていた、とするものだ。急減速の要因を25年初の調査サンプル入れ替えの影響に求める。先の健保統計の数字である2%台半ばが真の値なのだとすれば、急減速前の3%弱では実勢に対して過大評価、急減速後の2%は実勢に対して過小評価というイメージになる。2025年に入って急減速したというよりは、実勢賃金がそもそも3%より低かった、という話だ。

毎月勤労統計は年初に30人以上事業所の調査サンプルの入れ替えが行われる関係で、年が変わる際に水準感が変わることがよくある。厚生労働省もこの点から、25年1月のサンプル入れ替えによる数値への影響について分析資料を公表している。分析対象は本系列のみであり、市場関係者の注目する共通事業所ベースの値については示されていない。サンプル入れ替えに伴って共通事業所ベースの値を計算する際の集計対象となる事業所も年初に変わっているはずなので、その影響で水準感に影響が生じていてもおかしくはない。

筆者の仮説の弱みは急減速が「2月から」生じている理由を綺麗に説明できないことだ。サンプル替えの影響なら、素直に考えるとそれが行われた「1月」から生じると思われる。一方で、うるう年仮説も労働時間が減る理由、としては腹に落ちるのだが、給与が減った理由としては引っ掛かる部分もある。一般労働者の太宗はフルタイム勤務の正社員であるとみられる(*1)。固定の月給制の人が多いと思われ、うるう年で去年の給与が高かった、という点にやや違和感は残る。

*1:厳密な定義は以下(厚労省より抜粋)。「常用労働者」とは、次のうちいずれかに該当する労働者のことである。(1) 期間を定めずに雇われている者。(2) 1か月以上の期間を定めて雇われている者。「パートタイム労働者」とは、「常用労働者」のうち次のいずれかに該当する労働者のことである。(1) 1日の所定労働時間が一般の労働者よりも短い者。(2) 1日の所定労働時間が一般の労働者と同じで1週の所定労働日数が一般の労働者よりも少ない者。 「一般労働者」とは、「常用労働者」のうち「パートタイム労働者」を除いた労働者のことをいう。

結局、謎は謎のままなのだが、いずれにせよ4月の賃金統計、所定内給与がどうなるかは注目である(どちらの仮説も正しいのかもしれない)。4月に伸び率が戻らないようであれば、かねてから「3%の名目賃金上昇、2%の物価上昇」の状態を望ましい姿としていた日銀もその解釈を求められよう。

第一生命経済研究所 経済調査部 主席エコノミスト 星野 卓也