終戦から5年後の昭和25(1950)年、朝鮮戦争が起きる。朝鮮戦争での特需というのは、言われているほど日本経済に直接のメリットがあったわけではない。ただ、朝鮮戦争は〝間接的に〞は大きなメリットがあった。それは、アメリカが規制していた日本の各産業を一斉に解禁したということである。

(本記事は、大村 大次郎氏著『 お金の流れでわかる日米関係 元国税調査官が「抜き差しならない関係」にガサ入れ 』KADOKAWA (2017/6/1)の中から一部を抜粋・編集しています)

朝鮮戦争を契機に「日本の各産業」が解禁される

大村大次郎,税,日米関係
(画像=Webサイトより)

アメリカは日本が軍事国家とならないように、軍事に結びつく産業に関しては、厳しく制限していた。しかし、アメリカは、朝鮮戦争において軍需物資を日本で調達しなくてはならなくなり、日本の各産業の制限をほとんどなくしてしまったのである。

その効果がもっとも如実に表れたのが、製鉄・鉄鋼業だった。昭和26(1951)年には、GHQは日本の鉄鋼生産目標を銑鉄550万トン、鋼材550万トンにまで引き上げさせた。これは戦前の最高値とほぼ同じレベルだった。その結果、日本の製鉄業は、急激に復興し発展した。

日本の粗鋼生産量の推移は、次のようになっている。

1951年 650万トン
1961年 2827万トン
1970年 9332万トン

1951年と1970年を比べれば、実に14倍以上である。

日本は高度成長期に差し掛かり、鉄鋼の需要が急増していたが、それでもこのような大量の鉄が、国内需要だけで使用されていたわけではない。アメリカにも大量に輸出していたのだ。

朝鮮戦争の軍需物資だけではなく、平時においてもアメリカに輸出できるほど、日本の鉄鋼業は急成長していたのだ。この日本の鉄鋼業の急成長は、アメリカ経済に最初のパンチを見舞うことになる。

そもそもアメリカの鉄鋼業界は、技術も高く、競争力のある分野であり、主要な輸出産業の一つだった。1950年代の半ばには、アメリカの鉄鋼業界は史上最高収益を出していた。

しかし、日本やヨーロッパの鉄鋼業が猛烈に復興し、競争力を増していた。その結果、アメリカは1959年には、鉄鋼の純輸入国に転落してしまった。アメリカの鉄鋼業界が競争力を失った原因は、その価格だった。

アメリカ・ドルは、日本に対してだけではなく、ヨーロッパの国々に対してもレートが高く設定されていた。だから、アメリカ製品はそもそも〝割高〞になっていたのである。しかもアメリカは経済繁栄の影響で、国内の人件費が高騰していた。

さらにアメリカは、世界各国の自由貿易化を率先して進めてきた一方、自国の産業を守るための防御策をほとんど講じていなかった。

アメリカの鉄鋼業界は、1959年には日本からの鉄の輸入が増えすぎたことに大いに慌あわて、日本の鋼材を「ダンピングだ」として提訴した。しかし、時すでに遅し。日本の鉄鋼業は、瞬間にアメリカ国内のシェアを奪った。

その後、アメリカは、暗に日本の鉄鋼業界に圧力を加え続け、1969年からは日本側が自主規制をするようになっている。しかし、アメリカの鉄鋼業はもはや回復することはできなかった。アメリカ鉄鋼業が衰退したこのパターンは、その後、次々と他の産業も踏襲していくことになる。アメリカは、鉄鋼業と似たような経緯で、他の主要産業も次々に空洞化していくのである。

「沖縄返還」と「繊維製品」の密約

鉄とともに戦後日本の輸出を支えたのは、繊維製品だった。繊維業界は、戦前から日本の代表的な産業だった。

明治時代に、日本が生糸を主要な輸出産品としていたことは前述したが、その後、日本は生糸だけではなく、綿製品、絹製品など繊維製品全般を発展させていた。綿製品においては、戦前には世界シェア1位になったこともあるくらいだ。

日本の綿輸出は、世界大恐慌前の昭和3(1928)年にはイギリス製品の37%しかなかったが、昭和8(1933)年にはイギリスを追い抜いている。当時、綿製品は世界貿易の重要品目であり、長くイギリスがこの分野で断トツのシェアを持っていた。大英帝国が世界の超大国として君臨できていたのは、綿製品を支配していたことも要因の一つだったくらいである。

そのイギリスの牙城を、日本が突き崩したのである。しかも、日本の綿製品の主要な輸出先は、インドだった。イギリスの植民地だったインドで、日本は綿製品のシェアを奪ったのである。もちろんイギリス経済界は大きなショックを受け、それ以降、自国の植民地などに日本

製品が入ってこないように、「ブロック経済化」し、結局、世界貿易は収縮してしまう。日本の繊維業界は、それほど強かったのである。

その繊維産業が、戦後、早々に回復した。そして、綿製品・絹製品だけではなく、戦後に発達した化学繊維の分野でも、世界をリードする存在となった。

1960年代、日本とアメリカの貿易においては、日本の多額の黒字が続くことになるが、その最大の要因も、繊維製品だった。そのためアメリカは、日本に対し、繊維製品の輸出自主規制を暗に求めるようになった。沖縄返還の交渉の際にも、日米の首脳の間で繊維製品の密約があったとされている。

1969年11月、日本の佐藤栄作首相とアメリカのリチャード・ニクソン大統領が会談したとき、次の二つの密約がされていたという。「アメリカが沖縄を日本に返還した後、必要な場合は日本と協議した上で、核を沖縄に持ち込むこと」「日本は繊維製品の輸出を一定以下に抑えること」(『戦後史の正体』孫崎享著・創元社より著者が要約)

つまり、アメリカは沖縄返還の交換条件のような形で、日本に「繊維製品の輸出を控える」という約束をさせているのである。自由貿易を世界に推奨してきた当時のアメリカとしては、表立って輸出の自主規制を求めることなどはできなかった(現在は、平然と自主規制を求めてくるが)。そのため、密約という形になったのである。

大村大次郎(おおむら・おおじろう)
元国税調査官。国税局に10年間、主に法人税担当調査官として勤務。退職後、ビジネス関連を中心としたフリーライターとなる。単行本執筆、雑誌寄稿、ラジオ出演、『マルサ!!』(フジテレビ)や『ナサケの女』(テレビ朝日)の監修等で活躍している。ベストセラーとなった『あらゆる領収書は経費で落とせる』をはじめ、税金・会計関連の著書多数。一方、学生のころよりお金や経済の歴史を研究し、別のペンネームでこれまでに30冊を超える著作を発表している。

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