日本とアメリカの「経済関係」の歴史は古い。ご存じのように、そもそも鎖国をしていた日本が開国に踏み切ったのはアメリカの動きが原因だ。嘉永6(1853)年、ペリー提督率いるアメリカの艦隊が、大統領の国書を携さえて、浦賀沖にやってきた。それが、近代日本の始まりである。
(本記事は、大村 大次郎氏著『
お金の流れでわかる日米関係 元国税調査官が「抜き差しならない関係」にガサ入れ
』KADOKAWA (2017/6/1)の中から一部を抜粋・編集しています)
欧米諸国が世界中で展開した強欲なビジネス
なぜペリーがやって来たのかというと、当時、アメリカは太平洋の日本近海でクジラ漁を行っており、そのための燃料や食糧を補給する港が欲しかったのである。しかし、アメリカは日本での捕鯨船の補給だけにとどまらず、通商も求めてきた。日本は金の産出国でもあったので、通商相手として魅力があったのだろう。
アメリカの蒸気船の威容に圧倒された日本は、国交を結び、通商条約までをも締結する。これにより日本は、欧米と付き合うことを余儀なくされるのだ。当時から欧米諸国は、世界中で強欲なビジネスを行っていた。
たとえば、アヘン戦争。中国からの茶の輸入が過大になったイギリスが、これ以上の銀流出を防ぐために中国にアヘンを売りつけ、それを拒んだ中国に攻め込んだ。傍若無人のふるまいである。
昨今、国や企業を食い物にして巨額の利益を得る投資グループのことを「ハゲタカ・ファンド」と呼ぶことがある。この「ハゲタカ・ファンド」のようなことを、欧米は幕末のころから行っていたのである。
日本の金銀交換比率に着目した外国商人が日本で荒稼ぎ
そして開国早々の日本も、その洗礼を浴びることになる。というのも、欧米の商人たちは、日本の金銀交換比率が国際標準とかなり違うところに目をつけ、〝濡れ手で粟〞の利ザヤを稼いだのである。
当時、日本では金1に対して銀5で交換されていたが、欧米では金1に対して銀15で交換されていた。つまり、欧米諸国では、金がより高い価値を持っていたのである。
この交換比率の違いに目をつけた外国商人たちは、はじめに自国から銀を買ってきて、日本の銀銭と交換する。その銀銭を今度は金の小判と交換する。その小判を中国に輸出する。当時の中国には欧米の金融機関が進出しており、日本の金を欧米の相場で買い取ってくれた。わざわざ金を欧米に持ち帰る必要さえなかったのだ。
たったそれだけの操作で、元手を2倍から3倍にすることができた。外国商人たちは労せず金を手に入れることができたのである。外国商人は日本の金銀の公定比率で交換しているだけなので、日本の国内経済の中では損はない。
しかし金が大量に減少すれば、日本の貨幣制度が混乱してしまう。また、国際的に価値のある金が大量に流出することは、輸入の決済金が減少するということであり、「国際経済の中での日本」という立場においては非常に損である。幕府の官僚たちもこのことに気づいたが、後の祭りだった。
安政5(1858)年に幕府とアメリカが締結した日米修好通商条約の5条には、「外国の諸貨幣は日本貨幣同種類の同量をもって通用すべし」と定められていたのだ。それをいいことに外国商人たちは、日本で荒稼ぎした。
幕府は貨幣の改鋳(貨幣を回収して鋳い つぶし、金や銀の含有率などを変えた貨幣を鋳造すること)によって、ようやく金の流出を防いだ。しかし、そのときにはすでに百万両に及ぶ金が流出していたともいわれている。そして、この損失により日本中の知識人が「幕府は無能」と思うようになり、討幕、明治維新の遠因になったのだ。
大村大次郎(おおむら・おおじろう)
元国税調査官。国税局に10年間、主に法人税担当調査官として勤務。退職後、ビジネス関連を中心としたフリーライターとなる。単行本執筆、雑誌寄稿、ラジオ出演、『マルサ!!』(フジテレビ)や『ナサケの女』(テレビ朝日)の監修等で活躍している。ベストセラーとなった『あらゆる領収書は経費で落とせる』をはじめ、税金・会計関連の著書多数。一方、学生のころよりお金や経済の歴史を研究し、別のペンネームでこれまでに30冊を超える著作を発表している
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