「なぜ誰もそれが起こると分からなかったの?」――2008年11月5日、ロンドン・スクール・オヴ・エコノミクス(LSE)の新校舎落成式に臨席された英国女王エリザベス二世が、新校舎参観後に面会したLSE教授陣にたいして発せられた言葉である。
「それ」とは、リーマン・ブラザーズの経営破綻に端を発する世界金融危機を指している。女王陛下が経済学の世界的権威たちに投げかけられた問いへの答えは、正統と異端の貨幣(マネー)観の来歴をたどってみると見えてくる。実は、Money – The Unauthorised Biography(マネー、その非公認の伝記)というのが本書の原題である。
『21世紀の貨幣論』
著者:フェリックス・マーティン
訳者:遠藤真美
出版社:東洋経済新報社
発売日:2014年10月9日
マネーの起源と本質
著者は、西太平洋のヤップ島に遺る「フェイ」と呼ばれる石貨(せきか)の話から説き起こしている。フェイの存在は、マネーの起源と本質にかんする定説を覆す。フェイは物々交換の手段として使われたモノではなかったのだ。フェイは「信用取引の帳簿をつけるための代用貨幣(トークン)」にすぎず、その石貨の根底にある「信用取引・清算システム」こそが、マネーなのである。
マネーとは、人間の経済取引や社会活動を運びやすくするための思想や慣習であり、「社会的技術」であって、三つの基本要素、(1)普遍的な経済的価値、(2)会計制度(債券・債務残高を記録する仕組み)、(3)譲渡の分権化(第三者に譲渡可能な信用)からなるという。
こうしたマネー理解は多くの類書に共通するものだが、それにもかかわらず、マネーを財・サービスの交換手段としての物理的な実体とみる誤った貨幣(マネー)観はいまだに根強い。本書に記された「非公認の伝記」を通じ、マネーの本質を再確認しておく必要があろう。
マネーの大和解
マネーの支配(管理)をめぐっては、ソブリンマネーを自らの権限で発行する主権者(たる君主)と(マネーによって富を保存し、取引をおこなう個人や組織の階級である)プライベートマネー権力者とのあいだで長年闘争が繰り広げられてきた。その戦いは、1694年のイングランド銀行の設立をもって終止符が打たれる。
ウィリアム三世の治世、イングランド銀行が国王の信用回復と国家財政の再建に奉仕する見返りに、国王は銀行券を発行する権利をイングランド銀行に付与することが約束された。ここに成立した「互恵協定」を著者はThe Great Monetary Settlement(マネーの大和解)と呼び、この歩み寄り(=ソブリンマネーとプライベートマネーの融合)が「現代世界を支配するマネーシステムの直接の祖先」であると位置づけている。
マネーの大和解は、貨幣思想に革命的な影響を与えた。マネーは、君主が「人民の命を司る食糧を支配する」ための道具(『管子』)ではなく、「専制政治の愚かさに対抗すべく発明された最も有効な手綱」(ジェームズ・ステュアート)となったのである。
マネーの大和解はまた、「経済学」という社会科学を誕生させた。これ以後のマネー理解は「政治的なもの」でも、社会的技術でもなくなり、「ただの金属の塊になり、その価値は単なる自然界の属性」となる。そしてここに、現代の「標準的な貨幣観」が登場してきたと著者は見る。
なお、2007年からの世界金融危機にたいする政策当局の対応を論じた箇所で、「銀行は、従業員も、債券保険者も、預金者も、流動性支援と信用支援の両方を受け取る。主権者、つまり納税者には何の返礼もない。今回の金融危機は、歴史的な互恵協定が、返礼を伴わない一方的な贈与の関係へと変わっていたことをあぶり出した」とし、過去300年命脈を保ってきた「マネーの大和解」の「変死」が告げられる。
ロックの貨幣観とその影響力
マネー史においては、貨幣改鋳問題が必ず出てくる。17世紀後半にイギリスで起こった「ロック=ラウンズ論争」も本書で取り上げられている。過去の常識的な貨幣観に則ったウィリアム・ラウンズ蔵相の改鋳案は、哲学者ジョン・ロックの改鋳案(銀の法定重量を満たす硬貨への鋳造し直しを主張)に敗れる。
このときのロックの考え方を著者はこう整理している。「マネーの大和解が自壊しないようにするには、貨幣の標準を固定する必要がある。その結論を導くには、マネーは銀であり、価値は自然界の属性だと考えなければならない」と彼は考えていたのだと。「その推論は経済政策や金融政策に大きな影響を与えただけでなく、経済学から倫理が抜け落ちることにもなった」と著者は指摘する。ともあれ、歴史が示すように、ロック案の改鋳政策は完全に失敗する。
そもそも政治哲学者として名高いロックの思想は、その貨幣観とどう結びついていたのだろうか。この点について著者は、ロックの自然法論、その中心にある私有財産権不可侵の原則に言及したうえで、「この原理は、市民的自由は絶対的権力に侵害されてはならないとするロックの主張の基礎であり、立憲政治という新しい体制の思想的基盤だった」とし、「あらゆる種類の財産の中でもきわめて重要なものである」貨幣を侵害から守ることは自明だったと説明している。
さらに先の世界金融危機の到来を予測できなかった正統派経済学にたいするロックの貨幣観の影響について、著者はこう指摘する。「マネーを民主主義にとって安全なものにするロックの使命がもたらす最大のコストは、経済学の領域に残ったものではなく、経済学から抜け落ちたものの中に隠れていた。マネーと経済的価値に関するロックの概念は、市場に干渉しないことを合理的な人間の倫理上の義務として扱う許可を経済学者に与えるものだった。むしろ、そうすることを経済学者に強制する命令だと言える。これこそが、ロックの貨幣観がもたらした最も有害な帰結だった」と。
本書は、一般的に自由主義政治哲学の面から語られることの多いロックの思想について、「正しい貨幣観」との比較から彼の貨幣観を吟味し、それがいかに正統派経済学に影響を及ぼしているかを理解するうえで、たいへん参考になる。
そのほか本書では、正統派経済学とは「別の系譜」の経済学として、ウォルター・バジョット、ハイマン・ミンスキー、チャールズ・キンドルバーガー、ジョン・メイナード・ケインズの知見を参照しながら(特にバジョットについては『ロンバート街』を中心に多くの頁を割き)、「古い貨幣観」あるいは「正しい貨幣観」がけっして葬り去られたわけではなく、いまだ命脈を保っていることが説かれている。
冒頭の女王陛下の質問にたいし、英国学士院の代表者は、「危機を見抜けなかった原因は、だれも全体像をとらえていなかったことにある」という趣旨の回答を書いている。狭い専門知に囚われ、事象を総合的に捉える構えを失った現代知識人の典型的な姿がうかがえる。女王陛下ではないが、“It’s awful”(なんてひどいことなの)といって嘆息をつきたくなる。(寺下滝郎 翻訳家)
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