2014年、オバマ元大統領が来日した際、安倍首相が贈呈したことでさらに知名度を増した日本酒「獺祭」。2017年にはフランスのカリスマシェフであるジョエル・ロブション氏と共同で同国に出店予定など、その勢いは止まりません。では、「獺祭」を生み、作り上げた考えはどういったものなのでしょうか。その思想の裏側をのぞいてみます。
(本記事は、桜井 博志氏の著書『
勝ち続ける「仕組み」をつくる 獺祭の口ぐせ
』KADOKAWA(2017年5月18日)の中から一部を抜粋・編集しています)
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・(2)「獺祭」のブランドとしての成長は、顧客のニーズに応え続ける心
・(3)「お客様のいうことを“そのまま”聞かない」という「獺祭」のマーケット手法
・(4)ターゲットは国内のみならず 「獺祭」の世界進出戦略の現実味
・(5)「獺祭」が企業として成長できるコツ 「失敗に見切りをつけ、次に生かす」
獺祭の世界進出
<獺祭、パリ進出>
2016年10月、新聞などのニュースに、こんな見出しが躍りました。
2017年秋、フランスのカリスマシェフであり、世界最多のミシュランの星を保持しているジョエル・ロブション氏と共同で、私たちが造る日本酒「獺祭」が飲めるレストランやバー、ショップ、カフェなどで構成される複合店舗を出店する予定です。私たち旭酒造は、2000年に海外展開をスタートさせて以来、パリやニューヨークをはじめ20カ国以上の国々で「獺祭」を販売してきましたが、海外での初めての店舗となります。
「酒造メーカーがパリでフレンチレストランを出店」と聞いても、にわかには信じられない人が多いかもしれません。実際、斜陽産業と言われる日本酒市場は、第一次オイルショックのあった1973年をピークに売上規模は3分の1に縮小。若い人を中心に日本酒離れが進んでいると言われます。そんな日本酒が近年、海外で確実に根づき始めています。私たち旭酒造にも日本の輸出業者や外国の輸入業者からの新規の引き合いが増えていますし、また、海外から酒蔵への研修希望者があとを絶ちません。当社にも月に数組の外国人がやってきます。外国において日本酒の存在感が高まっているのは確実です。
そんな中、私たち旭酒造はフランスに店舗を出店します。日本の食文化である日本酒の魅力を知ってもらうと同時に、私たちの自信作である「獺祭」を世界に広めていきたいと思います。そして、フランスの食文化と「獺祭」がタッグを組むことで、日本酒の新しい世界が広がり、そこに新しい市場ができることを今から大いに期待しています。
このように、長らく日陰の道を歩んできた日本酒業界に、新しい波が押し寄せている。いや、むしろ率先して波を起こそうとしているのが、「獺祭」なのです。さて、「獺祭」という酒の名前を初めて聞いた、あるいは名前だけは聞いたことがあるけれど詳しく知らない、という人もいるかと思います。最初に「獺祭」について紹介させてください。
1948年創業の旭酒造は、山口県東部・岩国市の山奥にある酒蔵です。私は3代目の社長で、2016年10月からは息子が4代目として社長職を引き継ぎ、新体制をスタートさせたところです。山陽新幹線の徳山駅から徳岩(がんとく)線という1両編成のローカル線に乗り換えて40分、 JR周防高森(すおうたかもり)駅が最寄駅。近隣の有名な観光スポットとしては帯橋錦(きんたいきょう)がありますが、まわりは山や川などの自然に囲まれ、田畑が広がる静かな町です。そして、駅から車に乗り換えて15分ほど走ると、ようやく旭酒造の12階建ての大きな本蔵(本社蔵)が見えてきます。当社の看板商品である「獺祭」は、ここで造られています。旭酒造では、製造の途中で生まれる粕酒(さけかす)を使ったお菓子なども手掛けていますが商品の主力はあくまでも「獺祭」です。「獺祭」ブランドにはいくつか種類がありま すが、それ以外の酒は造っていません。「獺祭」一本で勝負しています。
先代の父親が亡くなり、私が旭酒造の社長の座を継いだのは1984年。その時点で、売上は前年比85%、過去10年では3分の1にまで売上が落ち込んでいました。過去5年は社員の昇給や設備投資もできない状態でした。当時の看板商品だった「旭富士」の売上は地元の岩国市でも4番手、完全な負け組だったのです。「獺祭」が生まれたのは、1990年のこと。それ以前は、父の代からあった「旭富士」という名の酒を製造・販売していました。「獺祭」という酒の名前に比べて、「旭酒造」という会社の名前は知名度が低いかもしれませんが、もともとは「旭富士」が私たちの主力商品でした。
「獺祭」の大きな特徴のひとつは、日本酒の中でも最高級の醸造方法で造られる純米大吟醸であること。「うまい日本酒」と言えば辛口というイメージがあるかもしれませんが、「獺祭」は、ふんわりとした梨のような甘い香りが鼻に抜けます。華やかな香りと、醇芳(ほうじゅん)な味わい、濃密な含み香、全体を引き締めるほどよい酸味、これらが然渾(こんぜん)一体となり、バランスを保ちながら、さわやかな後味を誘い、余韻が長く続く――。そんな酒でありたいと日々努力しています。
美味しさや品質にこだわった酒造りが徐々に評価され、これまでの日本酒ファンのみなさんはもちろんのこと、あまり日本酒を飲みなれていない人からも「これなら美味しく飲める」「日本酒のイメージが変わった」といった褒め言葉をいただくようになりました。あるテレビ番組で「獺祭」が取り上げられたとき、女性タレントの1人が獺祭を飲んで、「このお酒は私が今まで飲んだ日本酒のように『ウガッ』とならない」とコメントしてくれました。「良い酒は飲んだらパッとわかる。通(つう)でなければ理解できない〝良い酒〞なんてない」と私たちはよく言っていますが、女性タレントのコメントは、それを立証してくれました。そのほか、メディアでもたびたび取り上げていただくようになり、2014年、オバマ大統領が来日した際には、安倍晋三首相が「獺祭」をプレゼントとして贈ったことが話題になりました。
最初は、卓越したビジネスモデルなどなかった
私が3代目として酒蔵を継いだとき、旭酒造の売上高は1億円に達していませんでした。はっきり言って、いつ潰れてもおかしくない経営状況でした。それが、2010年に10億円を突破すると、2013年に37億円、2014年に46億円、2015年に65億円と、うなぎ上りで売上を伸ばしています。2016年9月期の売上高は108億円、出荷量は約2万6000石(4680kl)。そのうち1割は海外への出荷です。1年で約65%の増収、出荷量は2年前と比較して2倍以上に増えました。現在、「獺祭」は純米大吟醸のカテゴリーの中では、日本一の売上を誇っています。
日本酒市場が縮小してきた中で、なぜ「獺祭」は売上を伸ばすことができたのか。
「マーケティングをしっかりしているんですね」
「考え抜かれたビジネスモデルですね」
「世界進出を見込んだ、緻密な戦略を立ててきたのですね」
こんな言葉をよくいただきますが、もともと卓越した戦略やビジネスモデルがあったわけではありません。会社を潰してはいけないという一心で、試行錯誤を続けているうちに「獺祭」というブレイクスルーが生まれ、今に至るというのが本当のところです。
ただ、ひとつだけ胸を張って言えるのは、「酔うための酒、売るための酒を造らなかった」ことです。お客様が楽しく味わえる酒を造ること。「お客様が幸せになる酒造り」という信念を曲げずにきたことが、今の結果につながったと思っています。30年以上に及ぶ酒蔵経営を振り返って思うことは、これまでの私たちの道のりには、成功のために大事にしてきた肝があり、それらをさまざまなシーンで何度も口に出してきた、ということです。まさに今の「獺祭」を造ってきた〝口ぐせ〞と言えます。それらは私自身が大切にしてきた言葉でもありますし、なかにはお客様や取引先、社員などとの関係の中からインスピレーションを得たものもあります。
獺祭を生み、はぐくむ口ぐせ
ここでは、私や社員が日々口ずさんできた「獺祭の口ぐせ」を紹介しています。
世の中には日本酒業界と同じように、市場がどんどん小さくなっている産業、業界がいくつもあります。
しかし、そうした環境に付き合う必要はありません。ピンチはチャンス。市場が縮小している業界には問題や矛盾が存在するので、それさえ見つけて解決できれば、必ず道は開けます。私も振り返ってみればピンチの連続でした。会社をもっと伸ばそう、建て直そうと考えているみなさんには、私の経験がヒントになるかもしれません。
「経験と勘」 は言い逃れ
私たち旭酒造の酒造りが、一般的な酒蔵と決定的に異なる点があります。それは、「氏杜(とうじ)がいない」こと。酒造りは、杜氏が中心になって行うのが常識です。
杜氏とは、酒造りを行う職人集団の最高製造責任者。冬場になると蔵元のもとに杜氏を中心とした職人集団が集まってきて酒を仕込みます。したがって、杜氏の契約も1年ごとに行うのが通常で、今風に言えば、フリーランスのような立場と言えます。酒蔵の社長と杜氏の関係をプロ野球にたとえれば、球団オーナーと監督のようなものです。球団オーナーは監督の雇用主ですが、現場での指揮権は監督にあります。だから、酒造りは技術や知識のある杜氏に任せ、社長はあまり口を出さないというのが一般的です。
つまり、従来の伝統的な酒造りというのは、杜氏の長年の「経験と勘」にもとづいて行われる、というのが常識でした。「経験と勘」と言うと、いかにも職人らしくて言葉の響きは良いですが、「経験と勘」ほど当てにならないものはない、と私は実感することになりました。私は普通の酒蔵の社長とは違って、酒造りにも口を出すほうでした。父親の急逝後、酒蔵を継いでから2年ほどの間、優秀な杜氏にめぐり合えず、独学で酒造りを学んでいたからです。だから、当時の杜氏はずいぶんとやりにくかったと思います。
しかも、私たちがこだわってきた純米大吟醸は高品質な酒造りが求められます。どれだけ丁寧に手をかけたかどうかで、酒の出来に大きな差が生まれやすいのです。純米大吟醸とは、米と米麴、水だけで造り、醸造アルコールや糖類などを添加しない酒で(これを純米酒と言う)、なおかつ50%以上削り落とした米(精米歩合50%以下)を低温の状態で1カ月超の長期間にわたり発酵させて造った酒を言います。私たちが造る「獺祭」は、いずれも純米大吟醸に位置付けられます。
ちなみに、精米歩合70%以下のものを純米酒、本醸造酒、60%以下のものを特別純米酒、純米吟醸酒、特別本醸造酒、吟醸酒などと言います。日本酒の分類は少々わかりにくいので、ここでは、手間も時間もコストもかかる最高品質の酒が純米大吟醸である、と覚えておいてください。
杜氏に代わって素人の社員が酒を造る
ほとんどの酒蔵では、杜氏という職人が酒造りを仕切っています。しかし、現在の旭酒造には杜氏がいません。私が会社を引き継いだときの杜氏はあまり優秀な杜氏ではなく、私がさまざまな情報を集めて「こういう酒を造ってほしい」と積極的に働きかける必要がありました。一方、2人目の杜氏は優秀な人で、13年間にわたり良い酒を造ってくれていました。9700万円だった売上が2億円に伸び、「これなら将来、息子に会社を継いでもらえるかもしれない」と思えるようになったのも、その杜氏の腕に負うところが大きかったと思います。
ところが、ある新事業の失敗で経営危機に陥った会社に杜氏は見切りをつけて、辞めてしまいました。旭酒造で働いても、ろくに給料を払ってもらえないかもしれない、と思ったのでしょう。杜氏という大黒柱を失った私たちは、新しい杜氏を探し始めますが、いつ潰れてもおかしくない酒蔵に来てくれる杜氏は、そうそう見つかりません。そこで、私は決意します。
「自分で酒を造ろう」
そもそも、杜氏はベテランが多く、だいたいが60〜70代。体調を崩していつ来てくれなくなるかわかりません。仮にうちに来てくれる杜氏が見つかったとしても、昔ながらのやり方で造るでしょうから、これまでと何も変わらない。同じことを繰り返すだけです。それならいっそのこと、自分で酒を造ろうと考えたのです。自分で酒造りをするにあたり、心に決めていたことがあります。それは、「自分が造りたい酒だけを造る」こと。職人である杜氏に遠慮することなく、純米大吟醸に特化した酒造りをする。生きるか死ぬかの瀬戸際だった私は、どうせ潰れるなら、自分の理想とする酒を追求してやろうと決めたのです。
数値とデータにもとづいた酒造り
私を含めた5人でイチから酒造りをスタートしました。5人のうち私を除く4人は、まったく酒造りの経験のない若手社員です。まさに素人集団による酒造りです。私自身、杜氏抜きで酒造りに乗り出したとき、酒造りに関する多少の知識はありましたが、自分で造ったことがないのですから、完全にド素人でした。
そんな私が酒造りをするうえで頼りにしたのは、数値やデータをベースにした酒造りです。精米、洗米、蒸米、麴造り、仕込み、上槽(じょうそう)、瓶詰めといった酒造りの各プロセスでさまざまな情報をデータ化。それまで職人の「経験と勘」に頼っていた酒造りを「見える化」したのです。数値管理を重視した日本酒造りは思いのほかうまくいき、驚いたことに、最高ランクの「獺祭 磨き二割三分」は別にして、一般ランクの獺祭は「経験と勘」で杜氏が造った酒よりも、私と社員の素人集団が初挑戦で造った酒のほうがいわゆる吟醸酒らしい香りが出たのです。
30年以上にわたる私の経営者人生を前後半で区切ると、前半は1億円弱の売上を2億円にするのがやっとでした。一方、自分で酒造りを始めた後半は2億円から108億円へと伸ばすことができました。この差を生んだのは、自分たちの頭で考え、自ら行動したかどうかです。杜氏に頼った酒造りをあきらめて、自分で酒を造り始めたことが大きな成果を生んだのです。当時は本当に死に物狂いでしたが、今になって振り返れば、杜氏に逃げられてよかった……。皮肉にもそう思います。ビジネスにおいて「経験と勘」がものを言う機会が多いのは事実です。しかし、すべてを「経験と勘」に頼っている仕事は、実は非生産的、非合理的な現実を引き起こしている可能性があるのです。
「経験と勘」を見える化しろ
酒造りにも定石があります。専門家がつくった手本書(マニュアル)を参考にすれば、一定の品質の酒ができます。杜氏制度を捨て、「社員で酒を造る」ことを決めてから、私はマニュアルの作成にとりかかりました。ワープロ書きしたA4判20ページのマニュアルです。「酒造りのプロセスがたった20枚に収まるのか」と思うかもしれませんが、マニュアルに記したのは、酒造りの最低限のノウハウ。基礎中の基礎です。
重要なのは、マニュアルに載っているデータをどう再現するかです。だから、私たちが杜氏に頼らず自分たちで酒造りを始めたときは、各工程で数値管理を徹底しました。酒造りの経験のない社員4人とともに、麴造りや発酵など全工程のデータをグラフや表にし、分析する日々が続きました。たとえば、発酵の過程では、米や麴で造った日本酒のもろみ(発酵してどろどろになった状態)の糖化と発酵のバランスをどうとるかが重要です。理想的な発酵状態をつくるのに必要な温度や水を加えるタイミングなどを知るために、連日データを集め、ベストのバランスを探っていきました。
今もこのスタンスは変わりません。本蔵での酒造りでは、膨大な量のデータを蓄積しています。 当社の12階建ての本蔵の1フロアには、酒造りのあらゆるデータを収集し、分析する「分析室」があります。各工程の温度や湿度、アルコール度数などさまざまなデータを一括管理しているのです。見学に来た人たちを分析室に案内すると、「酒蔵というよりも研究室のようだ」とびっくりされます。私たちと同規模の酒蔵で、これほど数値管理を徹底しているところは、ほぼないでしょう。
桜井博志
旭酒造会長。1950年、山口県周東町(現岩国市)生まれ。松山商科大学(現松山大学)卒業後、西宮酒造(現日本盛)での修業を経て、76年に旭酒造に入社するも、酒造りの方向性や経営をめぐって父と対立して退社。一時、石材卸業会社を設立し、年商2億円まで成長させたが、父の急逝を受けて84年に家業に戻る。研究を重ねて純米大吟醸「獺祭」を開発、業界でも珍しい四季醸造や12階建ての本蔵ビル建設など、「うまい酒」造りの仕組み化を進めている。
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