型破りに考え、行動する企業は当然、一時的な失敗に行き当たります。しかしそれを通過点として、なぜそうなったのか、そこから得られる知恵や示唆は何なのかということを把握することで、企業はより強く魅力的になっていきます。今回は、失敗の乗り越え方や、ブランドと経営者の関係性について記載していきます。

(本記事は、桜井 博志氏の著書『 勝ち続ける「仕組み」をつくる 獺祭の口ぐせ 』KADOKAWA(2017年5月18日)の中から一部を抜粋・編集しています)

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「ピンチ」 が人を成長させる

獺祭, 日本酒,ブランド
(画像=Webサイトより)

これまで数えればきりがないほどの失敗をしてきました。なかでもいちばんの失敗は、忘れもしない、地ビールレストランの経営です。1990年代後半、どこの酒蔵にも言えたことですが、杜氏の多くは60〜70代と高齢になっていました。

うちで13年にわたって酒造りをしてくれた杜氏も65歳という、いつ引退してもおかしくない年齢に差し掛かっていました。杜氏は酒造りのかなめですから、このままでは酒蔵の将来が心配です。そこで、杜氏に若い後継者を育成してほしいと頼むのですが、杜氏は酒を造るのが仕事。教育するのが仕事ではありませんから、なかなか若い世代にノウハウを教えてくれません。こうした状況で酒造りを続けるためには、自社で杜氏を育成しなければならなかったのです。

ところが、それを阻む大きな問題がありました。酒造りは気温が低い冬場にしかできない、というのが常識の時代。これを「寒造り」と言います。今も酒蔵の多くは、寒造りが普通です。夏場は酒を造れないので、人件費は出ていく一方です。「夏は給料を払えないから、冬だけ酒造りに来てほしい」。そんなことを言う酒蔵で働いてくれる若者などいませ ん。

地ビールレストランで1.9億円の損失

そこで思いついたのが、地ビールの製造です。ビールは夏に売れるので、春から秋にかけてはビール造り、冬場は酒造りをすれば、年間を通じて若手の社員に給料を払うことができます。
地ビールを造るためには、監督官庁に酒造免許を出してもらう必要があります。役所に提出する書類を作成しますが、一向に通らない。「売れるかわからないからビール製造の許可は出せない」とのこと。そこで、経営コンサルタントの知恵を借りて地ビールレストランをオープンすることにしたところ、ビール製造の免許を出してもらえました。

1999年3月、桜の季節に合わせて帯橋錦の河畔に地ビールレストランをオープンしました。なぜか大道芸人を呼んだショーが見物という一風変わったコンセプトの店でした。今振り返れば、経営コンサルタントに言われるがままで、まったく自分たちのつくりたい店ではなかったのです。

地元からも期待されていたのですが、ふたを開けてみれば、まったく客足が伸びませんでした。オープン当初は少しは盛り上がりましたが、1カ月後には目標の15~25%しかお客様が入らなかったのです。

やはり酒造りとサービス業は全然違う。ズブの素人がいきなりレストランを出しても、うまくいくわけがありません。過剰投資もたたり、まもなく経営難の状態に陥ります。さらには、経営コンサルタントの選定ミスという不運も重なります。詐欺同然のアドバイスをされ、民事訴訟に発展する始末でした。結局、地ビールレストランは、わずか3カ月で閉店。2億4000万円もの投資をしたにもかかわらず、大失敗に終わってしまったのです。

それ以上に深刻だったのは、銀行の融資がストップしたことです。地ビールレストランの閉館が夕方のテレビのニュースで一斉に報じられ、各新聞の地方版にも閉館の事実が報道されました。銀行が「旭酒造は危ない」と思うのも無理はありません。経営コンサルタントに対して民事訴訟を起こし、売上と合わせて5000万円は返ってきましたが、1億9000万円もの損失を出してしまったことは、小さな酒造会社にとっては大きな痛手でした。それ以降、借金返済に奔走することになります。ポケットの中のジャリ銭をかき集める日々で、松の木を見てふと「あの木の枝ぶりは首を吊るにはちょうどいいなあ」といった思いがよぎることもありました。

そんな状態ですから、13年間勤めてくれた杜氏も愛想をつかして逃げてしまいました。「ここで酒を造っても給料をもらえないかもしれない」と思うのは当然です。杜氏はチームで酒造りをしていますから、自分の部下に給料が払われないことになれば一大事です。杜氏の判断を責めることはできませんでした。

社員を含めてまわりの人は99%潰れると思っていたでしょうし、私自身も6割くらいは潰れてもしかたない、と覚悟していたくらいですから。撤退時はまわりから「根性が足りない」「もっと努力しろ」など散々叩かれました。それでも、たった3カ月で撤退を決めたのは、「ここでやめればやり直せる」というギリギリの線だったからです。それ以上、続けていたら酒蔵を潰すことになっていました。ということは、今の獺祭も生まれていなかったでしょう。

やり直せない失敗はない

しかし、前述したように、この大失敗が杜氏が会社を去る原因となり、社員杜氏による四季醸造の酒造りへとつながっていきます。失敗の中でも、なんとかしようとあがいた結果、会社の成長への布石となったのですから、人生わからないものです。

この経験以来、やり直せない失敗はないと思うようになりました。失敗すれば経営にとっては痛手です。精神的なショックも小さくありません。でも、そこで終わってしまったら、その失敗は本当に失敗になってしまいます。 失敗をしたら、「うまくいかなかった原因を改善し、やり直せばいい」というのが現在の基本的なスタンスです。それ以外に失敗を活かす道はありません。

ただし、失敗をしても致命的な傷を負わないよう準備をしておくことは、経営者として重要なことです。失敗しても金銭的にカバーできる範囲であれば、試行錯誤を繰り返すこともできます。

失敗は現在進行形

2016年、獺祭を造る過程で出る米ぬかを活用して、「ライスミルク」という商品を発売しました。精米する際に取り除かれる胚芽と果皮には栄養が詰まっているため、健康や美容にも効果があります。

とても期待している商品なのですが、実のところ、思うようには売れていません。主な販路が直売店と自社のネットショップだけということもありますし、味にも改良の余地がまだあると思っています。現在も次の展開に向けて知恵を絞っているところです。ライスミルクの現状は、外から見れば失敗に見えるかもしれません。しかし、私は失敗にこそ、成功への道筋が含まれていると思っています。失敗は成長への糧――。そう信じることで、目の前の失敗を乗り切る勇気がわいてきます。

日本人だからこそ変わることができる

日本酒市場が落ち込んだ原因のひとつは、業界が伝統に固執してきた点にあります。ほかの産業や業界にも言えることですが、伝統に固執するのは弱点となります。日本酒の歴史をさかのぼると、米を麴で溶かして発酵させるという現在の日本酒製造のスタイルが確立したのは、室町時代のことだと言われます。500年ほど前の文献に製造方法の記録が残されていますが、その製法で日本酒を再現しても、現在の日本酒とはまったく違うものができあがります。

色は油醬のようで、匂いも今とまったく違う。酸味や甘みも今の平均的な日本酒の3倍以上ある。つまり、500年以上の月日の中で、日本酒は変化を続けてきたのです。同じ土地、同じ製法で長年造り続けてきたワインとは、その点でも異なります。

日本人にとってより美味しい酒を目指して、造り方を工夫したり改善したりするのは当たり前のことです。それに合わせて建物や設備が変化するのも当然と言えないでしょうか。日本酒の伝統とは、「変わらずに守り続けること」ではありません。「変わり続けること」こそ、日本酒の伝統だと考えています。

「獺祭の造り方は伝統から外れている」と言われることもあります。しかし、酒造りの手法は「結果」のためにあります。お客様に美味しいと感動してもらうという「結果」を追求したからこそ、今の獺祭の酒造りがあるのです。

売れないのは「欠陥品」だから

全国に講演などで行くと、地方の企業の方から「うちの会社も商品には自信をもっています。でも、東京では売れない。どうすれば売れるようになりますか?」といった質問をされることがあります。

こんなとき、私はこう答えています。

「商品に欠陥があるからです」

東京で売れないのなら、売れない理由があります。その欠陥を見つけて解決する。独りよがりでモノをつくっても、お客様のニーズがなければ売れません。いくら販売戦略を練って、商品を押し込んでも、すぐに市場から退場を命じられます。だから私たちは、獺祭を飲んだお客様に幸せになってもらうためにできること、解決すべきことを常に追求し、進化を続けようとしているのです。

「完璧」と言える日本酒でなくても、日本人はどこかに美味しさを見いだしてくれます。「飲みやすい」「味が深い」「辛くてキレがある」などさまざまな感想や好みがあるのは、日本酒の歴史が長く、それなりに理解があるからです。しかし、日本酒を知らない外国人は、そのような楽しみ方をしてくれません。完璧なものでないと納得してくれないのです。最初に進出したニューヨークで、そのことを実感しました。

どの会社の経営者に聞いても、自分たちの商品やサービスに自信をもっています。「欠陥などない」と信じているかもしれません。しかし、自信のある商品が売れないのは、お客様の視点から見たとき、必ず問題があるからです。まずはそれを認めることが大切です。お客様をよく観察し、商品サービスをチューニングすることで、必ず突破口が見つかります。

ブランドは覚悟でつくるもの

実は、「獺祭 磨き二割三分」に挑戦したのは、話題づくりの意味もありました。当時の1990年代後半は、さまざまなジャンルで「日本一」という言葉が流行っていました。そこで、獺祭も精米歩合で「日本一」になれば、注目を集めて売れるのではないかと考えたのです。

だから、実は23%という数字も後づけです。本当は25%の精米歩合を目指していたのですが、出張中に、すでに24%の純米大吟醸を造っている酒蔵があることを知り、あわてて現場に電話。「25%ではダメだ。23%まで磨いてくれ」と無理を言って実現したのが、二割三分なのです。私たちが二割三分で日本一の精米歩合を達成して以来、他の酒蔵でもさらに精米歩合を下げた純米大吟醸を造り、販売しています。私の知るかぎり、7%まで磨いている酒蔵もあるとか。

しかし、私たちは磨き競争に参加するつもりはありません。磨くのには物理的な限界がありますし、磨き競争の先に何か新しい価値が生まれるかと言ったら、そんなことはないでしょう。数値を競うことに意味はありません。

日本は第二次世界大戦中に、戦艦大和や戦艦武蔵といった大型の戦艦をつくりました。これらには、46㎝砲という当時の敵国の戦艦をしのぐ武器を備えており、世界最高の戦艦と言われていましたが、結局、敵の飛行機によってあっけなく沈められてしまいました。相手より大きな47㎝砲をつくることに躍起となるよりも、どうやったら敵の戦艦を沈めることができるかを本気で考えたほうが勝利をつかんだのです。

私たちが目指すのは、さらに獺祭の品質を高めて、新しい価値を生み出すこと。それがブランドにつながると考えているのです。新しいブランド価値を生み出す「獺祭その先へ」そうした発想から生まれたのが、獺祭の最上位のブランドである「獺祭 磨き その先へ」という商品です。

「二割三分」のキレイな飲みやすさに加え、日本酒本来の魅力である厚みと奥行きのある味わいを追求した酒です。現時点で私たちが造れる最高の酒です。四合瓶で3万2400円(税込み)という価格を聞いて、「高いなあ」と思う人もいるかもしれませんが、世界最高級のワイン「ロマネコンティ」などは、300万円以上の価格で取引されています。

高価格のワインは投機的マーケティングの結果とも言えますが、海外でワインと伍(ご)していこうというとき、日本酒は高価格帯への進出が課題になると考えています。中東の大富豪は、日本に旅行に来たくても「泊まるところがない」という理由で来日しないと言います。彼らに言わせると、日本のホテルはどこもセキュリティーが万全ではないからだそうです。
もちろん、日本にも1泊数百万円するような高級スイートルームを提供するホテル はありますが、大富豪は「安全に泊まる」ためには1000万円クラスの広さとセキュリティーを備えた部屋が必要だと考えているそうです。

そのような大富豪に日本酒を飲んでもらおうと思えば、もっと高価格で、なおかつ感動を与えるようなブランド力のある酒を造らなければなりません。「獺祭 磨き その先へ」は、その道を切り開くための一歩でしかありません。

どうすれば数百万円で売れる日本酒を造れるか。これは、獺祭のブランド力を高めるためにも、日本という国が世界で存在感のある国として生き残っていくためにも重要な課題と言えます。

桜井博志
旭酒造会長。1950年、山口県周東町(現岩国市)生まれ。松山商科大学(現松山大学)卒業後、西宮酒造(現日本盛)での修業を経て、76年に旭酒造に入社するも、酒造りの方向性や経営をめぐって父と対立して退社。一時、石材卸業会社を設立し、年商2億円まで成長させたが、父の急逝を受けて84年に家業に戻る。研究を重ねて純米大吟醸「獺祭」を開発、業界でも珍しい四季醸造や12階建ての本蔵ビル建設など、「うまい酒」造りの仕組み化を進めている。

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