ブランドとして生き残るためには何が必要なのでしょうか。それは、「常識にとらわれない心」と、徹底して「顧客のニーズに応え続ける」ということです。日本酒という、地元に根付き、かつ歴史を背負ったビジネスだからこそ必要な革新を獺祭は起こし続けてきたのです。

(本記事は、桜井 博志氏の著書『 勝ち続ける「仕組み」をつくる 獺祭の口ぐせ 』KADOKAWA(2017年5月18日)の中から一部を抜粋・編集しています)

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業界のマイナスの中にチャンスがある

獺祭, 日本酒,ブランド
(画像=Webサイトより)

私が旭酒造の経営を引き継いでから30年以上が経ちましたが、その間に売上の金額はおよそ100倍になりました。30年以上かかって100倍というのは、意外とたいしたことないと自分でも思うのですが、斜陽産業である日本酒業界の中での数字であることがポイントです。日本酒の市場規模は、過去40年間で売上が3分の1にまで落ち込んでいます。そのような業界にあって、旭酒造はV字回復を遂げることができました。

しかし、ここに至る道は平坦ではありませんでした。父の代の最盛期には一升瓶で 20万本を売っていましたが、私が継いだときはおよそ3分の1になっていました。山口県東部の市場で、旭富士は完全な負け組でした。売れない酒を、売れない取引先にもっていく。そんなむなしい日々が続きました。縮小する市場の負け組だったからこそ、「ここを出なくては生き残れない」という危機感をもっていたのです。

「どうせだったら、いちばん大きな市場で勝負しよう」

こうして、東京進出への準備を始めました。地元の勝ち組としてあぐらをかいている立場だったら、今の獺祭は生まれていなかったかもしれません。地元で売れないのだから東京に行くしかない……私が社長になったときの旭酒造の売上は9700万円。地元の岩国市では4番手の売上規模でした。ただでさえ日本酒業界の市場は縮む一方でしたから、地元でもトップになれない小さな酒造会社が、人口15万人の地方都市で今後も生き残るのは簡単ではありません。旭酒造の半径5㎞の人口は約300人、酒蔵が建つ集落は全部で30人ほど。まわりの集落の子どもたちが通う周北小学校は、全校児童8人です。まさに過疎化が進んでいました。このような環境では、地元を相手に商売をしていたら、いつまで経っても負け組から脱却できません。だからこそ、私たちはやるしかなかったのです。過疎化が進む地元で売れないなら、買ってくれる人がたくさんいる市場を攻めるしかない――。そうして、私たちは東京で獺祭を売り始めたのです。「地元を見捨てて東京に行くなんてけしからん」という声も聞こえてきました。しかし、それしか、私たちに残された道はなかったのです。

7分の1に縮小した着物市場

酒造業界にかぎらず、年々市場規模が縮小している業界は少なくありません。着物業界もそのひとつ。この40年間で、市場は7分の1にまで落ち込んでいると言います。酒蔵の経営者という立場もあって、海外のイベントなどで着物を身につける機会が少なくありません。だから、客の立場として着物業界を長年観察しているのですが、日本酒業界と一緒で、昔ながらのやり方に固執して、お客様と本気で向き合っていないことに不調の原因があると感じています。

着物と言えば、「高価なのが当たり前」というのが一般的なイメージです。しかし、着物には本来、普段使いできるような安価な商品など、さまざまなバリエーションあるものです。しかし、呉服店はお金をとりやすい結婚式や成人式に着るような式服ばかりを売ろうとする。実際それだけの価値がある着物なのかもしれませんが、数十万円の高価な着物を買わされるお客様は釈然としません。売る立場になれば、高価な生地、高度な技術でつくられた着物のほうがお客様を説得しやすい。「着物はこういうものなんです」と言われれば、目利きではないお客様の選択の余地はかぎられます。

固定観念にとらわれていないか

旭酒造で開催するクリスマスパーティーに着ていく着物を買いに、百貨店の着物売り場に行ったときのこと。クリスマスらしいコーディネートにしたかったので、「差し色となるような赤い帯はありませんか?」とリクエストしたものの、接客してくれた店員は、「そういう色の帯はありません」の一点張り。

これは、私から見れば、「伝統的な着物はこういうものだ」という固定観念にとらわれているようにしか思えません。最近では、着物を戦略的に仕事で使いたいとか、オシャレに着こなしたいという人も増えているはずです。フェイスブックやインスタグラムなどのSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)に浴衣を着たハレ姿をアップしたいというニーズもあるでしょう。そうしたお客様のニーズに応えることによって、落ち込む市場の中でも活路は見いだせるのではないでしょうか。

余計なお世話かもしれませんが、私から見れば「もったいない」と言いたくなる業界がたくさんあります。会社を経営していれば、必ずうまくいかない部分が出てきます。社会や業界との矛盾を前に、立ち往生することもあります。しかし、伝統や常識、固定観念に縛られている業界にこそチャンスがあります。業界の常識とお客様のニーズの間に横たわる矛盾を解消することによって、ブレイクスルーとなる商品を生み出すことができるはずです。これまで獺祭がやってきたことも、まさに社会や業界との間に生じていた矛盾を解消することでした。

「矛盾」の先にイノベーションがある

こうした矛盾を解消できるのは、経営者的発想のできる人だけです。会社に「使われている」という発想を捨て切れない人は、いくら優秀な部長や課長でも、どうしても目の前の売上や商慣習、常識などにとらわれることになります。大きな矛盾に気づいても、現状維持を選択したほうがラクなので目をつぶってしまう。あるいは、矛盾そのものに気づかないことも多いのです。

「どうすれば今より売れるようになりますか?」と聞かれることがよくあります。そのとき、私はいつもこう答えています。

「最も大事なのは、できない理由を探さないことです」

私が講演会などで「こういうやり方をしてきた」と話すと、みなさん感心してくれるのですが、同時に「でも、うちではむずかしい。なぜなら……」というように、できない理由を並べ立てるのです。「うちは飲食業界ではないから」「うちにはお金がないから」「うちには人がいないから」というように。もともとうまくいっていない業界であれば、いくらでも「できない理由」は見つかります。そこで、「どうすればできるか」と前向きに考えられる人や会社がチャンスをつかむのではないでしょうか。

「当たり前」 を捨てる勇気をもて

酒は、お客様に美味しいと思ってもらえなければ価値がありません。商品やサービスを通してお客様に幸せになってもらう。これは、どんな業界でも当たり前のことだと思うのですが、日本酒業界では長い間、その当たり前のことが見過ごされていたように感じています。酒造りは、「伝統という美名のもとに続けられてきた『習慣』を守ること」に価値が置かれ、昨日と同じことをするのが当然とされてきました。

しかし、それはお客様にとって幸せなことなのでしょうか。

本当に美味しい酒造りを追求することが、お客様のためになる。そんな当たり前のことを日本酒業界は忘れていたような気がしてなりません。私たちが純米大吟醸を造り始めた当時、他の酒蔵では、純米大吟醸はそれほどたくさん造るものではない、というのが一般的な認識でした。「あれは芸術品だから」「特別な酒だから」と製造の現場もとらえているので、純米大吟醸をたくさん造ろうとすれば、現場から反対されるのが普通だったのです。「お客様が求めるものを造る」ことは、私たちにとっては当然の道でした。それ以外に生き延びる道がないのですから。

しかし、そんな当たり前のことも、当時の日本酒業界では当たり前にはなりませんでした。純米大吟醸の生産を増やすには、たくさんの壁があったのです。一般的に、杜氏は新しいことにチャレンジしたがりません。新しいことをやれば、仕事量が増え、仕事のやり方を変える必要もあります。面倒な問題が発生する可能性もあります。また、「純米大吟醸はたくさん造るものではない」という業界の常識も行く手に立ちはだかりました。業界権威のある先生には、陰に陽に非難されました。「酒造りはベテランの杜氏に任せる」という酒蔵が一般的ですが、私は製造現場にも頭を突っ込んで、あれこれと口を出すタイプの経営者でした。杜氏にとっては面倒な相手だったでしょう。したがって、杜氏とぎくしゃくした関係が続いていました。

私はもともと独学で酒造りを学んでいたこともあり、酒を製造するうえでの勘所は押さえていたつもりです。だから、「自分で酒を造ろう」と決めてからは、現場の社員と試行錯誤をしながら酒造りをしていきました。その結果生まれたのが、純米大吟醸の獺祭です。このとき、「純米大吟醸は大量に生産するものではない」「酒造りは杜氏に任せるもの」という常識に縛られていたら、今、旭酒造は存在していなかったかもしれません。

稼働率をないがしろにした酒造り

伝統的な酒造りの現場には、生産性や稼働率といった言葉は存在しないと言っても過言ではありません。すべては杜氏の裁量に任されているからです。酒蔵も工場と一緒で、冬季しか酒造りをしなければ稼働率が大幅に下がります。一方、四季醸造で年間を通じて酒を造ることができれば、稼働率が上がり、原価を下げることができます。そこから生まれた資金を、人材育成などの人件費に振り向けることができるのです。

酒蔵にとって、酒の製造は扇のかなめです。それを社外の杜氏が全権を握っているというのは、あらためて考えてみればおかしな話です。だから、私の感覚では、メーカーとしてごく当たり前のことをやっているだけです。伝統に固執すると、そんな当たり前のことも見えなくなってしまいます。

「稼働率を優先するなんて、本来の酒造りではない」と思う人もいるかもしれません。しかし、稼働率を上げれば、原価にお金をかける余裕が生まれます。

獺祭は山田錦という質の高い高価な酒米だけを使って造ります。良い原料をふんだんに使って、優秀なスタッフを数多く投入する。これが美味しい酒を造る秘訣です。良い原料を使い、必要なだけの人員を送り込まなければ、どんなに真心を込めて酒を造っても、酒が美味しくなるとはかぎらない。原料である山田錦と人件費にこだわることが、獺祭の酒造りのベースなのです。業界で長年にわたって当たり前に行われてきたことを変えるのは簡単ではありません。しかし、お客様に最高の商品・サービスを届けるにはどうするのが最善か、という視点をもてば、「変えるべき伝統」と「変えるべきではない伝統」が見えてくるのではないでしょうか。

私たちが伝統にとらわれない酒造りができたのは、美味しい酒を造るという「結果」から入ったからです。何をするにも、「美味しい酒を造るにはどうすればよいか」というところから発想してきたからこそ、結果的に常識を覆すような決断ができたのだと思います。

酒造りはこうするのが常識だという「手法」から入っていたら、今の獺祭は生まれていませんでした。どんな業界にも、「こうするのが当たり前」という常識が存在するものです。それに対して疑問をもたずに、同じことを続けていればラクかもしれません。しかし、一歩引いて、「自分たちはこんな商品・サービスを提供したい」というありたい姿を描いてみる。「結果」から自分たちの商品や仕事のやり方を眺めてみることによって、まったく違う方法論が見えてくるのではないでしょうか。

桜井博志
旭酒造会長。1950年、山口県周東町(現岩国市)生まれ。松山商科大学(現松山大学)卒業後、西宮酒造(現日本盛)での修業を経て、76年に旭酒造に入社するも、酒造りの方向性や経営をめぐって父と対立して退社。一時、石材卸業会社を設立し、年商2億円まで成長させたが、父の急逝を受けて84年に家業に戻る。研究を重ねて純米大吟醸「獺祭」を開発、業界でも珍しい四季醸造や12階建ての本蔵ビル建設など、「うまい酒」造りの仕組み化を進めている

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