本記事は、安西洋之氏、中野香織氏の著書『新・ラグジュアリー 文化が生み出す経済 10の講義』(クロスメディア・パブリッシング)の中から一部を抜粋・編集しています

日本のラグジュアリーの「始祖」マツダとサンモトヤマ、秦ヴィトン

マツダ
(画像=よしひろ/PIXTA)

「ラグジュアリー」という言葉が日本語の中で日常的に使われ始めたのは、1975年頃です。この年、マツダからコスモAPという高級感と豪華さを打ち出した車が発売されました。APとは「アンチ・ポリューション」、つまり公害対策がなされた自動車という意味で、北米市場の要求に応えてつくられた新型車です。夜の闇に赤いドレス姿で艶やかに赤いコスモを走らせるモデルの宇佐美恵子が、当時における新しい概念だったであろう「ラグジュアリー」を体現します。

『新・ラグジュアリー 文化が生み出す経済 10の講義』より
(画像=『新・ラグジュアリー 文化が生み出す経済 10の講義』より)

さらに1977年にはこのCMシリーズのタイアップ曲として、しばたはつみが『マイ・ラグジュアリー・ナイト』を歌い、大ヒットさせます。「恋はゲームじゃなく/生きることね/答えて/いとしい人」というサビのメロディが逃げ場もないほどロマンティックな歌です。このときのマツダのCMのキャッチコピーは「誰よりも華麗であれ」。日本において市民権を得たラグジュアリーの初期のイメージは、「マイ・ラグジュアリー・ナイト」がBGMに流れる中、赤い高級車を走らせる赤ドレスの美女であったと推測できます。少なからぬ人がラグジュアリーという言葉に感じるという「小恥ずかしさ」の源流は、このあたりにあるのでしょうか。

ただ「公害対策」という、当時としては先進性のある社会的善を行うという姿勢を出している点に、今に通じるラグジュアリー観をくみ取ることも不可能ではありません。

実はコスモAPに先立つ1960年代から、海外のラグジュアリーブランドの服や小物が着々と日本に浸透し始めていました。仕掛け人は、茂登山長市郎( も と や ま ちょういちろう)氏です。第2次世界大戦中に従軍中の中国の天津で、ヨーロッパの一流ブランド製品に感銘を受けた茂登山氏は、1955年、東京・有楽町で「サンモトヤマ」を開業します。欧米から多彩なブランドを集めたセレクトショップのはしりです。

1962年にはグッチと総代理店契約を結び、エルメス、ロエベ、フェラガモと次々に海外ブランドを日本に紹介していきました。サンモトヤマは日本におけるラグジュアリーブランドのブームを先導し、一時は文化人のサロンのような役割も果たしていました。しかし1990年代以降、グローバル化を進める海外ブランドが続々と日本法人を立ち上げ、直輸入販売を始めます。そのあおりを受けてビジネスは陰りを見せ、同社は2019年には破産を申請。2020年には法人格が消滅しました。

とはいえ、サンモトヤマの影響の余波は広がりました。サンモトヤマが覚醒させた日本人の海外ラグジュアリーブランド熱は1970年代に高まる一方で、日本では法外な価格で売る悪質な並行輸入業者も横行します。その結果、「正規の価格」で販売しているパリのルイ・ヴィトン本店前で、連日、日本人旅行者が「安い!」(正規価格なのですが)と行列をつくることになります。1976年のことです。驚いたルイ・ヴィトンの経営者がアメリカの会計事務所ピート・マーウィック・ミッチェルを通じて日本の市場調査を依頼します。この依頼を同事務所の東京オフィスにいた秦郷次郎(はた きょうじろう)氏が受け、報告とともに独自のビジネスモデルを提案します。

1978年にルイ・ヴィトンが初めて日本に進出したときに日本支社の代表となり、1981年にルイ・ヴィトン・ジャパンの初代社長に就いたのが、ほかならぬ秦氏です。同氏の経営手腕はめざましく、世界のヴィトン製品の売上の3分の1を日本が占めるまでに同社を成長させます。彼の功績は広く知られるところとなり、その経営戦略は「ジャパンモデル」「秦モデル」として、ラグジュアリービジネス界に多大な影響を及ぼしました。ここで便宜上、「カトリック」として分類しているラグジュアリービジネスの基盤をつくったのは、日本人だったというわけです。

日本人が多く買い支えたといっても、顧客がすべて経済的にゆとりのある層だったわけではありません。むしろ、「時流に乗るグループに所属している」と見られたいがための無理をした所有であることも少なくありませんでした。女子大生までが「みんな」ヴィトンを持って安心していたという異常な状況です。当時のラグジュアリーブランドは、そのような見栄ないし心の弱さと結びついた印象をも与えてしまったがために、以後、社会階級なき日本におけるラグジュアリーは、虚栄の幻影を引きずることになります。

日本におけるイメージを決定づけたラグジュアリーメディア

1970年代後半から1980年代にかけての日本は好景気の波に乗り、ルイ・ヴィトンばかりではなく海外のハイブランドの有力な支援者となります。

2021年にアメリカで(日本では2022年に)公開された映画『ハウス・オブ・グッチ』には、アル・パチーノ演じるアルド・グッチが日本語で挨拶しながら登場し、いかに日本の顧客が従順でたくさんグッチを買ってくれるかという話をするシーンがあります。まだ当時は存在しなかった御殿場アウトレットモール(2000年開業)の話が出てくるなど、若干、事実と整合しないセリフもありましたが、70年代後半から日本人がグッチを含む海外ブランドの主要な顧客となっていたことは前述のとおりです。

80年代の日本のラグジュアリーブランドのブームを押し上げた功労者に、「ライフスタイルマガジン」と呼ばれる高級誌の一群があります。これらは「ラグジュアリーメディア」とも呼ばれます。

内容は、海外の高級ブランドを中心としたファッション、ジュエリー、高級時計、美容、国内外のリゾート、高級レストラン、セレブリティの生活や社会貢献活動の紹介などで構成されています。日本において「ラグジュアリー」と「海外ハイブランド」が不可分とみなされる慣習が流通する背景として、こうした日本特有のライフスタイルマガジンの影響力を無視することはできないでしょう。

新・ラグジュアリー 文化が生み出す経済 10の講義
安西洋之(あんざい・ひろゆき)
モバイルクルーズ株式会社代表取締役/De-Tales Ltd.ディレクター。東京とミラノを拠点とした「ビジネス+文化」のデザイナー。欧州とアジアの企業間提携の提案、商品企画や販売戦略等に多数参画してきた。デザイン分野との関わりも深い。2017年、ロベルト・ベルガンティ『突破するデザイン』(日経BP)を監修して以降、「意味のイノベーション」のエヴァンジェリストとして活動する中で、現在はソーシャル・イノベーションの観点からラグジュアリーの新しい意味を探索中。またデザイン文化についてもリサーチ中である。著書に『メイド・イン・イタリーはなぜ強いのか』(晶文社)など。訳書にエツィオ・マンズィーニ『日々の政治』(BNN)がある。
中野香織(なかの・かおり)
著述家/株式会社Kaori Nakano 代表取締役。イギリス文化を起点とし、ダンディズム史、ファッション史、モード事情、ラグジュアリー領域へと研究範囲を広げてきた。日本経済新聞など数媒体で連載を持つほか、企業のアドバイザーを務める。著書『「イノベーター」で読むアパレル全史』(日本実業出版社)、『ロイヤルスタイル 英国王室ファッション史』(吉川弘文館)、『モードとエロスと資本』(集英社新書)ほか多数。東京大学大学院博士課程単位取得満期退学。英ケンブリッジ大学客員研究員、明治大学特任教授、昭和女子大学客員教授などを務めた。

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