本記事は、井崎英典氏の著書『世界のビジネスエリートは知っている教養としてのコーヒー』(SBクリエイティブ)の中から一部を抜粋・編集しています。

Coffee beans in bags. Fresh coffee beans background.
(画像=Visual Intermezzo/stock.adobe.com)

コーヒーが変えたジャーナリズム

コーヒーハウスでは新聞や雑誌が読めたと言いましたが、それらは売店で購入するというより、コーヒーハウスに置かれたものを多くの人がその場で回し読みするものでした。当時は字が読めない人も多く、読めない人は読める人に読んで聞かせてもらっていました。やがて識字層は拡大していき、このことが新聞、雑誌の伸長はもちろん、経済発展に影響を及ぼしました。

新聞や雑誌はコーヒーハウスで読まれるだけでなく、まさにそのコーヒーハウスでも情報を収集しました。ゴシップや地域情報がコーヒーハウスを起点に集められ、またそれが紙面をにぎわせて客を喜ばせます。たとえば、先ほどの「ロイズ・ニュース」が海運系の新聞として伸びたのには、情報を求めた客がまた別の情報を持ち込むという好循環があったからです。

また、コーヒーハウスに集った人たちが文学や詩の批評を行いながら、作品の構想を練り上げるという動きも見られました。イギリス文学に大きな影響を与え、その時代を「ドライデンの時代」と呼ばれるほどの文学者ジョン・ドライデンも、コーヒーハウスを拠点に活動していたといいます。

イギリスの茶、アメリカのコーヒー

このようにイギリスを政治・経済・文化の面からもり立てていったコーヒーハウスですが、現在にまで続いていないのはなぜでしょうか?

実は、ロイズやドライデンの例にもあったように、コーヒーハウスごとに特定の人たちが集まるようになったことで、一方ではその分野の成長につながったのですが、他方ではコーヒーハウスのグループ化が進んでしまったのです。多様な個性によるコミュニティであったはずのコーヒーハウスが職業、階級、党派などによって分かれてしまい、次第に会員制のクラブへと変化していったのです。

また、イギリスの植民地経営の事情もありました。インドを中心にイギリスのアジア貿易を担った東インド会社が、当地の茶に関心を寄せた影響で、イギリス国内で大々的にお茶が宣伝され、イギリスは紅茶文化に置き換わっていったのです。

イギリス本土が紅茶文化に置き換わっていく一方、イギリスのコーヒー文化の性格を残したのが、イギリス移民が開拓したアメリカです。アメリカにおけるコーヒーの歴史はヨーロッパと同じくらいに古く、ヴァージニア州を開拓した探検家のジョン・スミス(1580~1631年)が広めたとされています。

そして時がち、1773年。世界史でも有名な「ボストン茶会事件」が起こります。東インド会社にアメリカでの茶の独占販売権を認める「茶法」がイギリスで制定され、その本国有利で理不尽な法律に対する不満から、ボストンに停泊していた東インド会社の茶船が襲撃された事件です。

象徴的なこの事件を境にアメリカ国民は茶から離れていき、よりコーヒーを嗜むようになったと言われています(もちろん紅茶も飲まれていますが)。

コーヒーと紅茶の間に、アメリカとイギリスをつなぐ世界史が隠れているのです。

コーヒーが「人権」となったヨーロッパ

さて、イギリスの話ばかりになってしまったので、ほかの国も見てみましょう。

イギリス以外で有名なコーヒーハウスとしてまず挙がるのが、パリのカフェ「ル・プロコップ」。1686年に開業し、18世紀にはロンドンと同様に、音楽家、劇作家などが集まる文学サロンとして機能しました。現在も営業しているので、パリへ行かれる方はぜひ。現存するパリで最古のコーヒーハウスです。

イタリアの「カフェ・フローリアン」も忘れてはいけないでしょう。こちらは1720年、ヴェネツィアに開業した、イタリア最古のコーヒーハウスです。やはり現在まで続いていますので、イタリアはヴェネツィアへ旅行の際にはぜひ寄ってみられては?

さて、イタリアのカフェには、いまもコーヒーハウスらしい民主性・社交性を伝える独自の風習があります。

それがナポリで生まれた風習「カフェ・ソスペーゾ」です。

これは、注文する際、お金に余裕のある人は自分の分以外に後で来る誰かのための「もう一杯」のコーヒー代金を支払うという風習です。「ソスペーゾ」とは「保留」という意味で、保留しているコーヒーを誰かが受け取れるわけです。

もともとは第二次世界大戦中の苦しい時期に、貧しい人が少しでも前向きになれるように応援する気持ちで始められた習慣だといいます。顔も知らない誰かのために先に代金を支払い、その一杯を誰が受け取ったのか知ることもない。思いやりにあふれた、とても素敵な文化です。ナポリ発祥のこの文化は、いまではイタリア全土、ヨーロッパ、アメリカの一部地域にも広がりを見せています。

もっとも困難な時期に、ほかのものでなく「一杯のコーヒー」を贈る習慣ができたのは、それだけイタリアの人々にとってコーヒーが欠かせないものだったということでしょう。どんなに貧しくても、生活が苦しくても、美味しい一杯のコーヒーがあれば少し幸せな気持ちになれるのです。

ちょっと話はれますが、2022年5月にイタリアのあるコーヒー店が国内で炎上し、海外でもニュースになるという事件がありました。

事件のてんまつは、次のようなものです。

そのコーヒー店には価格表が置かれていませんでしたが、QRコードを読み取ることで価格がわかる仕組みになっていました。ある注文客は、その店でエスプレッソを注文。さて会計の段になって、本人は1ユーロだと思っていたエスプレッソが、2ユーロだったと判明。「店側が値段表示義務に違反している」として客は警察に通報しました。

結果、値段表示義務に対する違反ということで、この店は1,000ユーロの罰金を支払うこととなりました。紙のメニュー表を用意しないのは違法だととらえたのです。

私たち日本人からすると、「1ユーロだと思ったコーヒーが2ユーロだったくらいで通報するなよ」と言いたくなるような出来事ですが、イタリアではSNSでもニュースでもさまざまなコメントが飛び交いました。コーヒーに2ユーロも、というのがイタリア人の一般的な反応でした。誰でも1ユーロという価格で飲めることに、コーヒーの価値を感じているのです。

この事件でもわかるとおり、一杯のコーヒーを飲む権利は、ヨーロッパでは「人権」に近いような感覚なのです。

世界のビジネスエリートは知っている教養としてのコーヒー
井崎英典(いざき・ひでのり)
株式会社QAHWA代表取締役社長
高校中退後、父が経営するコーヒー屋「ハニー珈琲」を手伝いながらバリスタに。2012年に史上最年少でジャパン・バリスタ・チャンピオンシップにて優勝し、2連覇を成し遂げた後、2014年のワールド・バリスタ・チャンピオンシップにてアジア人初の世界チャンピオンとなり、以後独立。コーヒーコンサルタントとして年間200日以上を海外でコンサルティングに従事し、Brew Peaceのマニフェストを掲げてグローバルに活動。コーヒー関連機器の研究開発、小規模店から大手チェーンまで幅広く商品開発からマーケティングまで一気通貫したコンサルティングを行う。日本マクドナルドの「プレミアムローストコーヒー」「プレミアムローストアイスコーヒー」「新生ラテ」の監修、カルビーの「フルグラビッツ」ペアリングコーヒーの開発、中国最大のコーヒーチェーン「luckin coffee」の商品開発や品質管理など。テレビ・雑誌・WEBなどメディア出演多数。著書・監修に『世界一美味しいコーヒーの淹れ方』ダイヤモンド社、『理由がわかればもっとおいしい! コーヒーを楽しむ教科書』ナツメ社、『世界一のバリスタが書いた コーヒー1年生の本』宝島社など累計10万部突破。


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