本記事は、中谷 昌文氏の著書『マイケルジョーダン成功の法則』(自由国民社)の中から一部を抜粋・編集しています。
自分が活躍するマインドから周りを活かすマインドへと進化
引退を挟んだ、ジョーダンの2度の全盛期
どのアスリートにも、全盛期というものがあります。引退と復帰を繰り返したジョーダンにとっては、いつが全盛期だったのでしょうか?
1993年、ジョーダンはNBA3連覇という快挙を成し遂げ、絶頂の真っ只中にありながら、父の死によって突然バスケットボール界を去ります。このときに、ジョーダンのひとつの全盛期は終わりました。
MLBを目指して野球の道にキャリアチェンジしたものの、花開かないまま、ジョーダンは1995年にバスケ界に電撃復帰。
「もう以前のようなプレーはできないだろう」とささやかれる中、ジョーダンは大活躍し、実力が健在であることを見せつけました。
問題児ロッドマンを活かし最強チームへ
第一全盛期と第二全盛期を比べてみると、個人の実力的には第一全盛期の方が勝っていましたが、総合的には第二全盛期の方が素晴らしかったという人も少なくありません。なぜなら、ジョーダンは第二全盛期で「自分が活躍するプレー」から「周りを活かすプレー」へと、自身を成熟させたからです。
第二全盛期のメンバーは、ジョーダンにとって最高のチームメイトであるスコッティ・ピッペンの他に、問題児とされていたデニス・ロッドマンが加わりました。ジョーダンは、ロッドマンを見事にコントロールし、最強のチームを作り上げたのです。
新人の頃は単なるポイントゲッターだったジョーダンも、チームリーダーに進化しました。
史上最高のプレーヤーでも、自分一人の活躍でチームを優勝させられるわけではありません。チームワークを大切にするリーダーになってこそ、優勝できるのだということを、ジョーダンは多くのアスリートに気づかせたはずです。6度の戴冠を経験したジョーダンと、優勝できなかったスーパースターたちとの違いは、そこにあったのだと思います。
「兄に負けたくない!」で培われたジョーダンの負けず嫌い精神
兄には1on1でどうしても勝てなかった
ジョーダンは4人兄弟の3番目でしたが、兄たちからバスケットボールを教えてもらい、兄たちにまったく勝てなかったことで、負けず嫌いに火が着きました。
特にすぐ上の兄であるラリー・ジョーダンに、1on1でどうしても勝てなかったことが、非常に悔しかったようです。「兄に負けたくない」という思いが、ジョーダンを練習へと駆り立て、試合に負けてもくじけずに最高のプレーヤーを目指し続けたのです。
「兄に負けたくない」と聞くと、映画『THE FIRST SLAM DUNK』で、主人公の宮城リョータが兄にどうしても勝てずに悔しがるシーンが思い出されます。リョータはけっして天才ではありませんでしたが、無類の負けず嫌いで誰よりもバスケを愛していました。その強い思いがリョータを一流の選手にしたのでしょう。
プロのアスリートには、兄や姉を持つ人が圧倒的に多いのですが、それは「負けてたまるか」という精神が、幼少期から育まれる環境にあるからだと思います。
逆に長男長女は、管理職に向いています。小さい頃から弟妹に配慮しながら生活しているので、長男長女の下で働く人は、とても働きやすいそうです。
競う相手は自分ができる最高のプレー
ジョーダンは、インタビューで自分と他の選手との違いを質問されたときに、こう答えています。「才能のある人はたくさんいるし、もちろん私もその一人だと思っている。しかし、人生を通じて他のプレーヤーと違っている点は、基準である。毎日、他の誰よりも、自分自身への要求を厳しくしてきた。他の誰かと競っていたのではない。自分自身と競っていたのでもない。私は自分ができる最高のプレーと競っていた」。
常に最高のプレーと競ってきたジョーダンは、自分に対して高い要求を突きつけ、それをクリアしてきました。日々基準を上げ続け、最高のプレーを目指し続けてきたからこそ、あの人間業とは思えないプレーの数々も生まれたのでしょう。
アメリカにてマイケル・ジョーダンのバスケット教室から門前払いを受け続けるも熱意でオファー19回目にして夢を実現。そこからマイケル・ジョーダンの紹介で日本でNIKEの「エアマックス現象」を起こす。国際ビジネスホールディングスグループなど、7団体の理事ならび理事長を務め、スポーツで培った粘り強い姿勢とビジネスセンスで実業と社会貢献事業を成功に導く。親のいない子どもにランドセルを届けるタイガーマスク運動ランドセル基金を28年間継続中。※画像をクリックするとAmazonに飛びます