徴収漏れが、政府の財政補填額の2倍?
2018年末に、中国と取引のある日本の企業担当者から問い合わせが相次いだ。「中国では個人所得税を減税していると聞いているが、現地の企業は新年から社会保険料負担が急増すると言っている。少しでも製品を値上げができないかと言っているが、どういうことか。」
中国では、2019年1月から税金と社会保険料の徴収を税務局で一本化する体制となった。少子高齢化が進展し、国の財政赤字が拡大する中で、社会保障に関する支出が急増している(1)。これまで見逃してきた社会保険料の徴収漏れにメスを入れ、少しでも社会保障財政をカバーすることが目的であろう。
税務局に徴収が一本化されたことで、申告した所得に基いて保険料をきちんと納付しているかチェック機能が働き、納めた保険料が本来より少なければすぐ追徴されることになる(2)。
「中国企業社会保険白書2018」によると、2018年、社会保険料をきちんと納めた企業はわずか27.1%であった(図表1)。およそ7割の企業は、社会保険料を本来より少なく納付していたことになる。中国の国泰君安証券研究所は、2017年の徴収漏れの総額をおよそ2兆元と試算している。これは同年に政府が社会保険向けに支出した財政補填1.2兆元のおよそ2倍の金額である。
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(1)拙著「「中国の2025年問題」-人口、財政、社会保障関係費の三重苦」、保険年金フォーカス【アジア・新興国】中国保険市場の最新動向(36)、2019年2月19日発行
(2)日本では、2014年度以降、日本年金機構が国税庁の情報と突合せをしている。(出所)中嶋邦夫著「年金改革ウォッチ2019年4月号~ポイント解説:パート以外への厚生年金適用拡大」、保険・年金フォーカス、2019年4月2日発行
世界的にも高い、中国企業の社会保険料負担
社会保険料を「きちんと」納める。この「きちんと」の基準は何か。中国でも、社会保険料の算出は従業員の賃金が基準となる。加えて、それには上限と下限が設定されている。前年の当該地域(または省)の在職職員平均給与を基に上限がその300%、下限がその60%となっている(地域、種別によって下限の設定が異なる場合もある)。例えば、従業員の賃金がその上限と下限の範囲内であれば賃金に基いて算出し、前年の当該地域(または省)の在職職員平均給与の300%を超えている場合は、300%に基いて保険料を算出することになる。
これまで、社会保険料は地域の社会保険局へ、所得に伴う税金は地域の税務局へ納められてきた。縦割り行政で当局間での連携がほぼないことから、社会保険料を本来の賃金や所得よりも引き下げた最も低い基準(60%)に基いて納付する行為が横行していた。社会保険制度を運営していく上で、適正な保険料が徴収できない事態が20年以上も続いていたことになるが、企業側を一方的に責めるわけにもいかないであろう。
例えば、社会保険料の中でも企業負担が最も大きいのが年金である。会社員を対象とした年金制度(都市職工基本年金)の保険料は原則として企業が賃金総額の 20%、従業員が賃金の 8%を拠出することになっている。日本のように労使折半ではなく、企業の方が拠出負担は重い。都市職工基本年金は1997年に現在の制度となったが、制度移行によって引き継いだ債務が膨らみ、当初より財政状況は厳しい状態にある(3)。それゆえ、企業の負担割合は世界的にみても高い(図表2)。
高い社会保険料負担の設定を受けて、企業側が考えた苦肉の策が本来の賃金より過少な基準で保険料を算出し、社会保障コストを抑える策である。しかし、徴収が税務局で一本化されてしまってはその策も使えない。冒頭の中国企業の嘆きは、この状況を反映したものであった。
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(3)拙著、基礎研レポート「中国の年金制度について(2017)-老いる中国、老後の年金はどうなっているのか。」、2017年6月19日発行
保険料率を更に引き下げることで、徴収の底上げをはかる
このような状況に対して、社会保険を管轄する当局が何もせず手を拱いていたというわけではない。中国経済が下振れすると、企業の人件コスト負担は一気に重くなる。よって、2015年以降は、負担割合の引き下げや調整が行われ、4回にわたって合計3.75%引き下げられている(4)。例えば、年金の企業負担割合については、20%以上であった場合は20%まで、20%の地域は条件を満たした場合19%までの段階的な引き下げが認められている(期限は2019年4月30日まで)(5)。
加えて、当局は徴収の一本化が発表された当初から、企業の経営状況を考え、社会保険料の更なる引き下げを検討していた。2019年3月の全国人民代表大会の政府活動報告で、李首相が年金の企業負担割合を16%まで引き下げてよいと発表したのはその回答とも言えよう。実施は5月1日からであるが、実際導入するかについては、制度運営を担う各地方政府に委ねられている。
現行19%の企業負担を16%まで下げるのはずいぶん大胆な決定である。これまでもここまで引き下げたことはないであろう。加えて、財政部が、失業、労災の保険料率の引き下げも発表しており、これに年金を加えると、現行から更に4~5%の引き下げが可能となる。つまり、政府が企業に正しい基準での納付を求めるには、企業の実質的な負担は増やさない状態にまで引き下げる必要があると判断したのであろう。
上掲の「中国企業社会保険白書2018」では、企業に対して保険料率をどれくらい引き下げられたら正しい基準に基いて保険料を支払うことができるか、についても調査している。最も多い27.3%の企業は「現行から8~10%の引き下げ」を選択しており、次いで多かったのが22.3%の企業が選択した「現行から4~5%の引き下げ」であった。さすがに一気に8~9%を引き下げるのは厳しいものの、多くの企業に応えて大幅に引き下げられることになる。
ただし、実際引き下げたとしても、最終的に制度運営が立ち行かなくなっては意味がない。特に、年金については、2016年時点で黒龍江省のように年金積立金を使い果たした地域が出現しており、財政が厳しい状況にある。
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(4)人力資源社会保障部「関于階段性降低社会保険費率的通知」〔2016〕36号、人力資源社会保障部・財政部「関于継続階段性降低社会保険費率的通知」〔2018〕25号,人民ネット「社保征管新政実施在即企業期待合規降費斉歩走」、2018年8月25日掲載、
(5)ただし、公的年金制度は地域(主に市単位)で運営されるため、引き下げに向けた最終的な判断は地域に委ねられている。年金積立残高に余裕のある地域、生産年齢人口の多い地域では18%(例:山東省青島市)や、14%(例:広東省広州市)と大きく異なる。
年金の保険料率を16%に引き下げられない地域はどこか?
中国の都市職工基本年金の財政収支をみると、全体としては黒字となっているものの、近年、年金支出が保険料収入を上回り、財政補填がなければ支出を賄えない状況にある(図表3)。2017年の財政補填は収入全体の14.8%を占めた。年金に関する財政補填は直近5年間で2倍に急増し、社会保険に関する政府財政補填全体の4割と最も多くを占めている(図表4)。その分、国の財政へのインパクトも大きい。
一方、前述したように全人代の政府活動報告で、年金の企業負担割合16%までの引き下げを発表したものの、導入に際しての条件を示していない。振り返って見ると、2019年4月30日までを期限として実施されている措置では、1%引き下げるに当該地域の年金積立金の積立度合が9ヶ月を超えていることを条件としている。なお、ここでの積立度合は当年の年金積立残高が当年の年金支出の何か月分に相当するかを示したものであり、日本とは少し異なる(6)。
よって、参考までに2017年時点での9ヶ月を超える地域をみると、31地域中19地域のみが該当した。あくまで参考値にはなるが、現行基準を参考にみると、少なくともおよそ1/3にあたる12地域では引き下げは難しいといえよう(図表5)。
年金積立残高がマイナスになっている黒龍江省はさることながら、遼寧省、青海省などは積立度合の警戒値とされる3ヶ月をわずかに上回る程度で、元より保険料率を引き下げられるような状態にはない。2017年において、各地域の基金支出が収入を上回る地域は6地域あったが、特に、遼寧省は高齢化の急速な進展、若者の地域離れ、国有企業改革に伴う早期退職者が多く発生したこともあって、不足額が340億元と最も多かった(図表6)。
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(6)日本の場合は、前年末の積立残高を当年支出で除して算出し、それが何年分に相当するかを示したもの。
全国の保険料率を16%に調整したら、2035年に年金積立残高を使い果たす?
そもそも基本年金基金(日本の年金積立金に相当)は、全国で統一して管理・運営されておらず、地域間の財源移転が働かない構造となっている。加えて、これまでの一人っ子政策など人口抑制政策の影響により、日本よりも少子高齢化の進展が速く、地域間の高齢化の度合いも区々である。全国統一ができれば一番良いが、基金の多くは地域の経済成長と密接に関係しているため、実現に至っていない状況にある。
苦肉の策として、2018年1月からは省ごとの基本年金基金の格差是正を目的とした中央調整基金が設置され、各省から一定額を徴収して、定年退職者数が多く、高齢化率が高い地域に財源を多く移転する措置をとっている(7)。中国財政部の発表によると、2018年(7月1日~12月末)は全国からおよそ2,400億元が徴収され、22の省に分配された。2019年は徴収額を6,000億元規模にまで拡大する予定としており、中央財政からの補填に加えて、新設の中央調整基金も大いに活用されることになるであろう。制度運営を担う地方政府のみに負担がかかる事態になれば、黒龍江省のように積立残高を使い果たす地域が出てきてもおかしくないからだ。
中国の政府系シンクタンクである社会科学院は、李首相による16%への引き下げ発表の翌月である4月初旬に、年金についての報告を行った。それによると、2019年以降、全国の年金保険料率を16%に調整した場合、都市職工年金の積立残高(財政補填を含む)は2027年を境に急速に減り始め、2035年に使い果たしてしまうと試算した(8)。
都市職工年金は、現役世代が保険料を負担し、高齢者世代を支える賦課方式(1階部分)を採用している。つまり、年金給付のために必要な資金は全て事前に積み立てられるわけではない。年金給付に充てられなかった部分を積み立てた積立金を使い果たすと、その運用収入や元本の活用はできなくなるが、当年の保険料などの収入に応じて一定程度の割合で維持することが可能である。上掲のような試算結果が出たのであれば、制度運営の安定化に向けて、日本が行うような一定期間ごとの財政検証の導入を早急に検討する必要があろう。
いずれにしても、中央政府としては、まず、保険料率を下げることで正しい基準に基いた保険料納付を企業に徹底させるつもりであろう。保険料率はその後、段階的に調整することも可能である。しかし、規定通り保険料を納めるとなると、中小企業や個人事業主では手元に収益がほとんど残らない状態も考えられ、企業活動に与えるマイナスの影響は相当大きいものとなる。政府は経済成長、財政、生産年齢人口の動向等を鑑みながら、今後、更に慎重な運営を行っていく必要があるであろう。
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(7)2018年は、徴収額は(各省の企業従業員の平均賃金×90%)×各省の年金加入者数×3%で算出され、分配額は(徴収額の総計÷定年退職者数の総計)×各省ごとの定年退職者数で算出された。中国財政部の発表によると、2019年は、各省の年金加入者に係る係数を3.5%に引き上げて徴収される予定である。
(8)中国社会科学院は、試算条件として、保険料率と受給開始年齢(定年退職年齢)については公表している。保険料率については2019年以降、19%の地域は16%に、16%以下の地域(広東省14%、山東省18%など)は2022年から毎年0.5ポイント上昇させ、最終的に16%まで引き上げた場合としている。また、支給開始年齢については、2022年から女性(一般)は3年毎に1歳引き上げ、定年退職年齢を現在の50歳を55歳にする。その後、男性と女性(幹部)の年齢を3年毎に1歳引き上げ、定年退職年齢を男性65歳、女性(幹部)60歳とする。(出所)中国社会科学院社会保障実験室ウェブサイト、2019年4月12日アクセス、
片山ゆき(かたやま ゆき)
ニッセイ基礎研究所 保険研究部 准主任研究員・ヘルスケアリサーチセンター兼任
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