(本記事は、久慈直登の著書『「売れる営業」のマインドセット』株式会社CCCメディアハウス2019年5月1日刊の中から一部を抜粋・編集しています)

目標を掲げ続けることが人生に実りをもたらす

目標を掲げる
(画像=ImageFlow/Shutterstock.com)

生来、「ウサギ」ではなく「カメ」の私ですから、傍から見ればノンビリやっているかのように見えたかもしれません。しかし、カメにはカメの強みがあるということは、本書ですでにお話ししたとおりです。

また、中国の故事成語である「駑馬十駕(どばじゅうが)」という言葉を、私は胸に抱いて日々を送っていました。

「走りの遅い馬(駑馬)でも、10日走れば、駿馬が1日に移動する道のりと同じ距離を移動できる」――つまり、「才能の乏しい者も、努力を怠らなければ才能のある者と肩を並べることができる」という意味です。

また、その裏にはこんな真意が込められています。

「現実的な目標を立て、実現に向けて努力を続け、達成できたらさらに高い目標を設定することに意義がある。目標を定めず、やみくもに走り出す駿馬は、結局どこにも行きつくことができない」

ダメ馬だった私にとって、これほど励みになる教訓はありませんでした。

ここにも、豊かな実りをもたらす「継続の力」があることを実感します。

会えないときでも、お客さまに安心感を抱いていただくために、良好な関係を維持するように努力を続ける――これは営業としてマストの心がけであり、やがてそれが大きな成果をもたらしてくれます。

それと同じように、確かな目標を定め、コツコツと努力を重ねれば、充実した未来を手に入れることができる――それは刹那的な成功とは違って、人生を豊かにしてくれる財産になるのです。

保険営業の世界に飛び込む決断をした「26歳の私」をほめてあげたいと言いましたが、それは、MDRTやCFPに挑戦しようと決めた自分に対しても同じです。

いずれの場合も、チャンスが目の前にあることに気づく「アンテナ」をきちんと磨いていたから、一歩踏み出すことができたのです。

入社して17年目、もし、そのアンテナが錆びついていたら、おそらくマンネリに陥ったまま、現状に甘んじて漫然と仕事を続けていたことでしょう。

あきらめなければ、夢はかなう

「自分オリジナルの発想」で目標を設定したことで、自身へのコミットメントが生まれ、達成までのプロセスが血肉となって身につく――それは私が新人時代から自覚してきたことです。

上司に指示された仕事だけをこなしたり、他人に忠告されて勉強を始めたりしたわけではありません。

私が今日まで営業職として実りある人生を送ってこられたのは、その信念があったからです。そして、後に選択理論心理学に出会い、立てた目標へ向かっていく心がいっそう強化されたのでした。

入社17年にして、大きな2つの目標に出会った私は、保険セールスの世界で誰も到達したことのない領域に足を踏み入れようとしたのですが、そのとき、実はもうひとつ、私のモチベーションをかき立てる要素があったのです。

それは、沖縄の営業レベルを引き上げることです。

ご存じのとおり、沖縄県の賃金水準は全国平均から見てかなり下位にあります。2018年の「賃金構造基本統計調査」(厚生労働省)によれば、47都道府県中、43位の246万8000円。これは、1位の東京都(380万4000円)の65%にも満たない数字です。

また、人口は145万229人(18年12月1日現在)で25位ですが、立地的に本土から遠く離れており、経済基盤はかなり脆弱と言わざるをえません。

実感として、東京と沖縄では、企業の給与も10万円以上の差があったように思います。

その前提に立って、東京の営業職と同じ条件で闘うのですから、MDRTのメンバー入りへのハードルは、とても高いのです。

ですから、東京での研修会では、東京で働く若いセールスたちが口々に「MDRTを目指したい」と言っているのを聞いても、最初は高嶺の花とあきらめかけていました。

「沖縄で一番といっても、全国のなかでは取るに足らない存在」「東京の人とは勝負にならない」と決めつけていたのです。

でも、何度か研修会に参加しているうちに、私の気持ちは変わっていきました。

「MDRTはどこで働いていても同等に門戸が開かれている。ならば、沖縄から挑戦したっていいじゃない」

ちょうど目標を失いかけていた私にとって、それは絶好の対象になると気づいたのです。

おそらく、東京などの都市圏にいる営業職がそれを聞いたら、驚かれたと思います。

「沖縄レベルでMDRTなんて、夢みたいな話をしているぞ」

そんな反応があったかもしれません。実際、「沖縄のトップ」は、その程度の力しかないと思われていたのです。

ですから、たった3年でMDRTのメンバーとなったこと、その後、10年連続で入会し、終身会員になれたことで、私は大きな自信を手に入れたと同時に、沖縄のレベル向上と業界内でのイメージアップにひと役買えたのかなと思っています。

沖縄にも、生保業界の会社が外資系も含めて増えています。営業職として働く者もたくさんいます。私が「沖縄からのMDRT入り第1号」となったことで、彼らにとっても大きな励みになったはずです。

数はまだまだ少ないですが、私の後輩ひとりを含め、その後数人がメンバー入りしています。おかげさまで、「沖縄もレベルが高くなりましたね」と声をかけられることもしばしばあります。

地域差というハンデキャップが、かえって仕事に対する向上心を高めることにつながるということを、私は証明することができました。

自分がどこに住み、どんな悪条件下で働いていたとしても、あきらめてはいけない。あきらめた時点で、可能性はゼロになってしまうのですから。

「一念、岩をも通す」と言います。強い意志を抱き、目標に向かって計画的に行動すれば、夢はかなうのです。

10年後、自分はどうなっていたいか

10年後に自分はどうなっていたいか――自らにそう問いかけて、すぐに答えが言える人は少ないのではないでしょうか。

長期目標を立てることを勧めている私にしても、20代の頃はただがむしゃらに目の前の仕事に取り組むので精いっぱいでした。経験を糧に創意工夫をこらし、お客さまの裾野を広げ、絆を深めることで、成績も伸びていきました。

つらいときやスランプの時期に、読書を通じてたくさんの教えを吸収できたことも大きな支えになりました。落ち込んだり、心が病んでいたりするときこそ、いったん立ち止まって、自分に「肥料」を与えることが大切なのだと学びました。

「苦難福門」という言葉に出会ったのもその頃です。

「苦痛や苦難こそが幸福に至る入口なのだ」と自らを奮い立たせ、いっぽうで、「努力もしないで幸せが向こうからやってくることなどない」との思いも強くしました。

30代の10年間で、いっそう実績を重ね、沖縄県内の生保業界では名の知れた存在になった私は、「この仕事を続けてきて本当によかった」という満足感と、「これからも営業一本で生きて行こう」という意欲に満ち溢れていました。

ところが、40代を迎えたときに、ふと自分の営業人生を振り返り、「果たして私はこうなりたくて仕事を続けてきたのだろうか」と、自問するようになったのです。

20代、30代の頃にもっと高い目標を設定していれば、もしかすると違う自分になれていたのではないか――ちょうどその頃、仕事が型にはまってしまい、ややルーティン化していたせいで、そんなことを考えたのかもしれません。

壁に突き当たったときは本を読むのが私にとっての打開策でしたが、このときは、研修会で出会った選択理論心理学が打開の糸口となりました。

そのおかげで、MDRTやCFPという挑みがいのあるターゲットに照準を合わせることができたわけです。

ただ、この決断を10年前にしていたら、40代ではまた異なった、さらに大きな「人生の見取り図」を描けていたかもしれません。

だからこそ、いま20代、30代の方たちには、10年後、もっと言えば20、30年後の自分を思い描いて、大きな目標を設定して生きていってほしいと思うのです。

「でも、目標はどうやって見つければいいのか」とよく尋ねられます。

そこにはノウハウなんかありません。目の前にあるチャンスに気づくことができるように、感性のアンテナを磨いて日々を送っていれば、必ず「これだ」という瞬間が訪れるのです。

スティーブ・ジョブズは2005年、スタンフォード大学の卒業式における有名なスピーチのなかで、こんなことを語っていました。

「将来をあらかじめ見据えて、点と点をつなぎ合わせることなどできない。できるのは、後からつなぎ合わせることだけです。だから、われわれはいまやっていることがいずれ人生のどこかでつながって実を結ぶだろうと信じるしかない」

これを聞くと、未来の自分を思い描くことなど不可能であるかのように思えます。でも、私はこの言葉をそう捉えてはいません。

目の前の仕事に集中して、たくさんの経験、情報や知識(点)を蓄えていれば、それらがやがて結びつくことがある。その結合の瞬間に気づけた者だけが「未来の自分」を思い描くことができるのだ、という意味だと思うのです。

そして、目標を設定することはもちろん大切ですが、最も重要なのは、そこに至る「プロセス」です。

目標に向かって行動する過程で、また新たな「点」を手に入れることができる。そして、その集積と結合がさらに大きなビジョンを生み出す。その際、行動原理の軸がぶれていなければ、自分を管理することも簡単にできるはずです。

その連続が「豊かな人生」をつくりあげる――私はそう思うのです。

ちなみに、私はいま60代の半ばにさしかかろうとしていますが、「10年後の自分」を思い描いているかといえば……その話はまた後ですることにしましょう。

成功者の真似をすることから始めよう

私は営業を「天職」だと思ったことはありません。

たしかに、営業職に就いたのはひらめきが理由ですから、「天からのお告げ」があったとは言えるのですが、少なくとも「天性に合った職業」ではありませんでした。この世界に飛び込んだその日から、自他ともに認める「不向き」な仕事に懸命に取り組んできただけです。

「実は才能が隠れていたんじゃないですか」と言われることもありますが、そのように感じたことは一度もありません。

「聴く耳」を持たない営業に成功は訪れない――これは、私が経験を通して知った教訓ですが、だからといって私にそのような「才能」があったとは思いません。それは、生来誰にでも備わっている資質の一部なのではないでしょうか。

私がなぜトップセールスになれたのか。その理由については、これまで本書のなかで示した私の考え方のなかに、ヒントがあるのだと思います。

ただ、いまになって考えてみると、意識の持ちようという点では、「成功者の真似をすること」にあったのではないかと思います。

第2章で柴田和子さんのお話をさせていただきました。彼女の営業術を少しでも参考にできたら、という思いで、お目にかかったときにはお話をうかがい、そのノウハウの一端を吸収させていただいたのです。

仕事でも娯楽でも、よほどの天才でもないかぎり、初心者はまず先輩たちの振る舞いを見て真似るところから始めます。伝統芸能や工芸などのように、師弟関係を通じて「技」が継承されていく世界もありますが、営業職だって同じだと思うのです。

私は柴田さんを勝手に「師」として仰ぐことに決め、その営業手法を真似ることにしたわけですが、ここで問題なのは、柴田さんと私とはまったくの別人格であり、個性も性質も異なるということです。

営業は人とのコミュニケーションが主となる仕事ですから、キャラクターの異なる先輩のやり方をそのまま真似るわけにはいきません。

実際、柴田さんと私のキャラは正反対です。彼女はいつも華やかな装いで、元来社交的な方です。私は地味で控えめなタイプですから、「真似るポイント」を間違えると、何の効果もなくなるでしょう。

「模倣なくして創造なし」と言うように、その対象から自分に適合し、参考とすべき部分をいただいて、あとは自らのスタイルをつくりあげていくことが肝要です。

私は自分のスタイルを確立するまで、なるべく「主張」を持たず、虚心坦懐に先輩のやり方を受け入れてきました。「あの人とは違う」と理解したうえで、模倣から創造へとつなげていったのです。

「売れる営業」のマインドセット
玉城 美紀子(たまき・みきこ)
第一生命保険株式会社安里営業オフィス・シニアエキスパートデザイナー。
全世界の生命保険営業職トップ6%のメンバーで構成されるMDRT(Million Dollar Round Table)終身会員、CFPファイナンシャルプランナー。
沖縄県那覇市出身。幼少期に父を亡くし、小さな雑貨店を営む母親に女手ひとつで育てられる。中学生で母の元を離れ、牛乳屋を営む叔父の家で毎朝牛乳配達をし、従妹たちの子守をする生活に。高校卒業後、地元の銀行に就職(事務職)するが、結婚・出産を機に退職。
再就職活動中の26歳のとき、第一生命のセミナーに参加。創業者・矢野恒太の志に共感して、コミュニケーション下手のため避けていた「営業職」として入社することを決意。営業経験なし、ゼロからのスタートで、入社直後はまったく結果が出なかったものの、独自のマインドと方法を確立しながら3年後には頭角を現し、5年目にはトップセールスに。以来、営業一筋38年。2001年にMDRTに初選出(沖縄では初)されて以来、これまでに通算17回選出されている(10回以上の選出で終身会員)。
「営業とは一生懸命、人の話を聞くこと」が信条。

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