行きたい京都の新名所~古くて新しいカフェ
世界中から観光客がやってくる京都。下京区にある知る人ぞ知る人気のスポットが、年季の入った建物の中にある「開化堂カフェ」。おしゃれな店内に女性客の姿が目立つ。
一番人気のメニューはコーヒー付きの「あんバタセット」(1200円)。「あんバタ」は焼きたてのトーストに、京都の老舗「中村製餡所」のつぶあんをこれでもかと乗せている。「チーズケーキセット」(1300円)のチーズケーキには、濃厚なベイクドチーズの上にサワークリームがたっぷり乗っている。
この建物は40年ほど前まで京都市内を走っていた市電の車庫だった。市電の廃止後、使われていなかったのを、3年前にリノベーションしてカフェとしてオープンした。壁の一部はあえて昔のままに。ドアノブは電車のブレーキレバーだ。
このカフェを経営しているのが、茶筒の老舗・開化堂だ。
熱狂的ファンを生み出す、京都140年伝統の技
東京・銀座の百貨店「松屋銀座」。催し物会場に、ひときわにぎわう一角があった。客が熱心に見ているのは開化堂の茶筒だ。茶筒の素材はブリキ、真鍮、銅の3種類。120g用で1万4040円となかなかの値段だが、次々と売れていく。
松屋のバイヤー・松田日奈子さんは「松屋がたってのお願いをして、出ていただきました。売れております」と言う。多い日は50個以上も売れるそうだ。
開化堂の茶筒のすごさはひと目で分かる。ふたを乗せるだけでピタッと閉じるのだ。そんな開化堂は京都にある小さな店。創業は1875年。日本で初めてブリキの茶筒を作ったと言われており、連日各地から客がやってくる。
人気が高いのは「120gというサイズです。ある程度手のひらに収まって、しまいやすいので、よく売れています」と教えてくれたのは、開化堂6代目・八木隆裕(44)だ。
開化堂の茶筒はすべて、店の裏の工房で作られている。職人は8人で分業制。八木もそのひとりで、父で5代目の八木聖二もまだ現役だ。茶筒はすべて手作り。しかも140年前の創業以来、同じ作り方をしている。
茶筒は二重構造。ブリキで作った中筒に、外筒を合わせる。上ぶたと外筒がぴったり合うことで気密性が高い茶筒になる。
まずは茶筒のサイズに合わせて金属の板をカット。カットした板を丸めて、ハンダで固定する。つなぎ目の厚くなった部分は細かく叩いて、滑らかにする。中でも難しいのは密封性の調整。外筒とふたの合わさる部分を慎重に叩いていく。
「表面が微妙にちょっとだけ膨らんでいる。それで変わります」(八木)
仕上げに菜種油を塗って、「砥の粉」という砥石の細かい粉で丹念に磨き上げ、完成だ。一見シンプルだが、130以上もの工程がある。だから1日に作れるのは40個ほどにすぎない。
開化堂の茶筒は美しいだけでなく、機能も優れている。
茶所・宇治市で300年以上続く指折りの老舗が「丸久小山園」。部外者立入禁止の、お茶を調合する特別な部屋にあったのが、開化堂の茶筒だ。どれも去年のお茶だが、この茶筒に入れてあるから鮮やかな緑と香りを保っている。
「密封がいいです。やはりお茶というのは湿気るとダメですから。丁寧に作ってあるので代々愛用しています。明治の後半ぐらいからだと思います」(11代目園主・小山元治さん)
そして開化堂の茶筒は、年月を経ると風合いが増す。これも魅力の一つだ。
スピーカーにも?~世界が称賛する京都の茶筒
開化堂の茶筒は海外でも認められている。フランス・パリのシャンゼリゼに店を構える「ピエール・エルメ」といえばマカロンで有名。店の奥はカフェになっていて、そこに開化堂の茶筒があった。
「開化堂の茶筒はうちの雰囲気にとても合っています。熟練の職人技が店の価値を高めてくれるんです」(マネージャーのニサール・サーディさん)
開化堂の茶筒は今、とんでもない進化を遂げている。一見、普通の茶筒に見えるが、ふたをあけると音が流れてくる。そしてふたを閉めると音が消えていく。パナソニックと共同開発したスピーカー「響筒(きょうづつ)」だ。
「もともと松下幸之助創業者が、伝統工芸の中にそういうものづくりの原点がある、というようなことをおっしゃっていて」と言うのは、デザイナーの中川仁さん。
「スピーカーは、良い音を出すために、振動を殺す努力をして極力なくそうとするんです。響筒の場合は、あえて振動を残して、手でその音を感じる、その楽しさだったり、驚きというのを作っていきました」
イギリス・ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館。世界の優れたデザインを収蔵するこの博物館にも、開化堂の茶筒がある。日本を代表するデザインとして、永久収蔵されることになったのだ。その理由を、日本の美術や工芸品が専門という主任学芸員のルパート・フォークナーさんはこう語る。
「明治初期の形で、今の世界に出してもおかしくない。本当にシンプルで、バランスが良くて。デザインの歴史の中で代表的なものの1つです」
歴史に翻弄されて~廃業寸前からの復活物語
開化堂の創業は明治初期の1875年。文明開化にちなんで屋号をつけた。もとははかりを作っていたが、当時イギリスから輸入されたブリキを使って、他にはない丸い茶筒を作り出した。
それまでお茶は、木箱などに入れて保管していた。ブリキの丸い茶筒は密封性が高く、持ち運びも便利だと、たちまち人気となり普及していった。
ところが、太平洋戦争が勃発すると、金属は貴重な軍需物資として強制的に回収されるようになった。鍋、釜、はては寺の鐘まで生活から姿を消した。商売道具の金属が自由に使えない、開化堂にとって厳しい時代が続いた。
「しんどくても続けてくれた。細々とでも続けたので、今の開化堂が残ったんじゃないかなと思います」(八木聖二)
戦後、大手を振って茶筒が作れるようになると、名古屋から西日本にかけての茶所を行商して回る。手作りで質の高い茶筒の評判は広まり、皇室献上品にもなった。
やがて高度経済成長期を迎え、機械化による大量生産、大量消費が進むと、手作りにこだわり続ける開化堂は、時代の波に取り残されていく。
「開化堂もプライドがあったので、うちは安い缶は作れない、と。どんどん機械化して安いものを作るのは、開化堂の根本的なものにはつながらない。だから父も祖父も作らなかった」(八木聖二)
さらに訪れたのがバブル崩壊。百貨店など大口の顧客を失うと、年商は3000万円にまで落ち込んだ。当時社長だった5代目の聖二は息子に「こんな仕事はダメになる。サラリーマンになれ」と言ったという。
「確か僕が高校生だったと思うんですけど、親父がめちゃめちゃ暗い顔して、『もうわしで辞めるし、跡は継ぐな』と言われて、あ、そんなもんかなと思いました」(八木)
八木は大学を卒業すると、外国人向けに京都の土産物を販売する会社に就職。ところが、そこでの出来事が八木の運命を変える。
ある日、八木が勤める店にアメリカからの観光客が訪れ、開化堂の茶筒を購入した。「外国の人が何に使うんだろう?」と気になった八木は、店の外まで追いかけた。聞くと、その外国人は「家のキッチンで使おうと思って……」と答えた。八木は「海外の人は茶筒の使い方にこだわっていない。好きなように使ってもらえばいいんだ」と気づいた。
「あ、もしかしたら海外で売れるかもしれないと思った瞬間ですね。で、親父に跡を継ぎたいと言いました」(八木)
八木は会社を辞め、父の元で茶筒づくりを学び始める。
新商品も続々誕生~海外売上げ30%に
2005年、八木はロンドンに渡った。向かったのは世界中の質の高いお茶を扱う、ティーショップ「ポストカードティーズ」。開化堂の茶筒を知っていたオーナーのティモシー・ドフェイさんが、「店で売ってみないか」と声をかけてくれたのだ。
日本を意識して、作務衣姿で実演販売。開化堂の歴史や技を語った。すると、「信じられないほどの大盛況でした。八木さんが話す茶筒の作り方や開化堂の歴史に、みんな心を奪われたのです」(ドフェイさん)。
続いて八木は、意気揚々とフランスに向かった。パリの有名デパートからも実演販売を依頼されたのだ。「日本を意識してやってほしい」と言われ、ロンドンと同じように作務衣を着て実演販売を始めた。
だが、パリの客は関心を示さない。しまいには子供に「あ、忍者だ」と言われる始末だ。そこで翌日、日本らしさを捨てて普段着で販売。すると、嘘のように売れ始めた。
「僕は日本を出した方がいいのかなと思っていたけど、そうではなかった。やはりこっちの人の暮らしがあって、そこの暮らしの中に寄り添う、入り込んでいく、忍び込んでいく。そういうことが必要なんだと気が付きました」(八木)
以来、八木は新たな取り組みを始める。若い職人たちとアイデアを出し合い、これまでと違う商品を作り始めたのだ。
例えばパスタ用の「ブリキパスタ缶」(2万6460円)。密封性が高い茶筒の特徴を生かした。職人歴5年の西口安葵子が考え出したものは、アフタヌーンティーセット用として「開化堂カフェ」で活躍している。
「2段になっていて、茶筒かなと思って開けたら違うというちょっと楽しい感じになってます」(西口)
新しい商品も増え、いまや売り上げは廃業を考えた頃のおよそ10倍に。海外販売は13の国と地域にのぼり、売り上げの30%を占めるようになった。
老舗の跡継ぎ6人組~驚きの新商品で逆襲
この日、「開化堂カフェ」に集まっていたのは、いずれも京都の伝統工芸の若き跡継ぎたち6人。八木をはじめ、西陣織「細尾」の12代目、朝日焼16代目など、それぞれが自分の家業の先行きに不安を感じていた。そんな彼らが、生き残りをはかろうと組んだユニットが「GO ON」だ。
「儲からない仕事だ、しんどいだけの仕事だということが基本的にあった。だから僕たちは日本のマーケットだけではなくて世界中のマーケットに打って出て、そこで儲けて、これはちゃんと生きていける商売をやろう、と」(八木)
たがいに協力して、世界に向けた新しい商品づくりに動き出した。
京都・西陣織の老舗「細尾」は、1688年の創業以来、金糸銀糸を使った豪華な帯を作り続けてきた。しかし着物離れが進み、西陣織の生産量はピーク時の10分の1に激減する12代目・細尾真孝さんは「やっぱり手探りでもがいている時期というのはありました」と言う。
そこで細尾さんは、帯のための西陣織ではなく、何にでも使える生地にと発想を転換した。実は帯は、織幅が32cmと非常に狭いため、他のものが作れなかった。そこで150cm幅の西陣織が織れる機械を開発したのだ。
その生地を使い、ニューヨークのデザイナーと作ったのがソファー。これが大人気となり、西陣織の可能性を一気に広げた。そして洋服の生地としても、パリコレに鮮烈デビューを果たしたのだ。
「モノではなくて、素材としての可能性が西陣織にあるんだということを気付けました」(細尾さん)
一方、宇治で16代続く「朝日焼」。温かい色合いが特徴だ。それがデンマークのデザイナーと組むと、ヨーロッパで人気の器に生まれ変わった。
さらに「GO ON」はパナソニックと組んで新たな商品開発に乗り出す。1962年創業の「中川木工芸」。3代目の中川周士さんは、老舗旅館や料亭向けに、おひつや木桶を作ってきた。
「京都市内で祖父がやっていた頃には250軒くらいあったと言われますが、今では4軒しか残ってないですね」
その中川さんがパナソニックと共同で作ったのが徳利。木桶の技で作っているが、温度調整ができるよう、底がIH対応になっている。様々なコラボで、「GO ON」は伝統工芸に新たな命を吹き込んでいるのだ。
京都には、将来に悩む伝統工芸の担い手が大勢いる。そんな彼らに、「GO ON」は自らの経験を伝えている。若い職人たちにとって、「GO ON」は将来への道標だという。
「常に前にいてくれる感じです。自分たちはどうやっていこうかなと、常に考えさせてくれる先輩というか……」(提灯職人10代目)
伝統工芸の「御恩」に感謝しながら、可能性を「GO ON」、探り続けている。
~村上龍の編集後記~
茶筒には130以上の工程があるらしいが、サイトには8工程しか紹介されていなかった。確かめようと、比較的シンプルだと思われる「磨く」を選んだ。
八木さんの説明はていねいだったが、理解するのに時間がかかった。「磨く」だけで、これほど複雑で繊細なのかと愕然となった。
開化堂には、新製品もあり、海外でも広く事業を展開している。だが八木さんは、工房で茶筒と向き合うときがもっとも心が落ち着き、いまだ、探求の途上だという。
茶筒の佇まいはアートだが、込められているのは「工芸家としての自負と誇り」なのだ。
<出演者略歴>
八木隆裕(やぎ・たかひろ)1974年、京都府生まれ。1997年、京都産業大学外国語学部卒業。2017年、社長就任。
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