本記事は、オリバー・バークマン氏の著書『HELP!「人生をなんとかしたい」あなたのための現実的な提案』(河出書房新社)の中から一部を抜粋・編集しています。
興味を持たれる人間になるには?
誰しも、他人に興味を持たれる人間になりたいと思っている。だが、1965年に『How to Be a More Interesting Woman(どうすれば、もっと興味深い女になれるか?)』という本を出したバーバラ・ウェッジウッドは次のように書いている。「その前に考えねばならないことがある。それは、世の男性たちのすべてが、興味深い女性を望んでいるわけではない、ということ。しかし、美しい女性を望まない男性はいない。美しい女性なら、たとえほかに欠点があっても大目に見られるだろう、ということだ」
今日、この種の話題がかつてほど深刻に語られることはないが、「興味深い人」になりたいという願望は、男女を問わず今も衰えていない。これに答えて、さまざまな自己啓発本がいろいろな提案をしている。しかし、どれも逆効果を招くウェッジウッドの域をこえていない。例えば、「何か本当に興味を覚えることを見つけなさい。そしてそのエキスパートになりなさい」という人がいる。しかし、世の中には自分の専門事項を得意げに延々と語りたがる輩が掃いて捨てるほどいる。誰にも本気で相手にされない連中がね。
そもそも「興味(深さ)とはどういうことか」、誰もはっきり答えられないところに一番の問題がある。そこで、他人の興味を引き出すためにさまざまなヒントが提案されるが、いずれも既存の問題を再燃させるだけの結果に終わってしまう。例えば、「人々が知りたがることを敏感に嗅ぎとる直感力を養いなさい」とアドバイスされるが、「そもそも人々は何を知りたがっているのか?」という最初の疑問に戻り、循環論法の罠にはまってしまう。また、「まず、ブログを始めなさい」とデザイナーでブロガーのラッセル・デイヴィスが勧めるが、皆が知っているとおり、本当に興味深いブログを始めるのはブログに関心を持っている人たち(デイヴィスを含む)だけで、そうでない人たちのブログの内容は退屈極まりないものになるだろう。
面白いことに ―― と言っても、私が今話題にしている「興味(深さ)」という意味ではないが ―― 対話の中で感じる「退屈感」は「興味(深さ)」よりも定義しやすい。相手に退屈を感じるということは、自分と対等の社会的地位を相手に認めないことである。「人間は、その個性が無視されたり、心理状態が理解されないときほど激しい怒りを覚えることはない」と、ロバート・グリーンはその著書『
エドマンドソンはこうも述べる。「専門家の長話も退屈だが、最も性質が悪いのは相手の専門分野に立ち入ってあたかも自分がその筋の専門家であるかのように話す人である。私の仕事仲間の1人で、コールリッジ(18〜19世紀の英国の詩人)について知識をひけらかしたがる者がいるが、彼は私の身近に感じる事項について語り、そうすることで私に恩恵を施しているものと思っているらしい。そして、私自身も、彼の話に耳を傾けることで彼に恩恵を施していると思っている。だが、こうしてお互いに恩恵を施し合っていると思っていても、実際にそうではないことがわかると、いずれ2人の友好関係は崩れ、悲劇が生じることになる。お互いが相手に『貸し』を作っていると思うからだ」
他人に興味を持ってもらうには、一にも二にも自分から相手に興味を抱かねばならない、と自己啓発本は言っているが、それだけでは不十分なことがエドマンドソンの話からもわかるだろう。確かに1つの真理として言えるのは、われわれはみんなが尊大な利己主義者であり、その欠点につけ込むやり方はうまく機能するだろうということだ。例えば、仰々しく相手に興味を示したり、ありったけの質問を浴びせたりするのがそうである。また、相手の話に意欲的に耳を傾けることができるというのは貴重なテクニックだろう。だが、注意しなければならないのは、ごく些細なことに意識を集中し過ぎると興味の焦点がいつの間にか自分自身に振り戻されるということだ。これは特に、事実に反してあたかも興味があるかのように振舞おうとする場合に起こりやすい。
ここで、ひとつの疑問が頭をもたげてくる。興味を持たれる人間になろうという試みは結局、すべてが本質的に自己中心的なものにならざるを得ないのか? もしそうだとしたら、それは退屈極まりないことになりはしないだろうか。